「ああ、エルサレム」(マタイ23章37節) ( 10.10/2018 )
「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」(マタイ23章37節)

主イエス様が神の裁きから私たちを守って下さるということを受け入れましょう。それは主イエス様が「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1章29節)だからです。
私たちには私たちを生かそうとして死んでくださった主イエス様がいてくださるのです。彼は私たちの罪の重荷を負い、その血によって滅びの中から私たちを贖って下さったのです。
主イエス様は預言者たちが殺され否定されてもひるみませんでした。確実な代価をもって私たちを滅びの中から救い出してくださったのです。

では、救いとは何なのでしょうか。世の価値観における救いとは、互いに愛し合って贅沢に暮らすこと、くらいの考えが一般的なのではないでしょうか。主イエス様がここで教えて下さっている救いとは神を神とすることこそ救いなのです。

「めんどりがひなを翼の下に集めるように」病気や経済的困難や隣人とのトラブルなど神がおられるなら、これらの問題を放っておかれるはずはないと世は言います。しかし、聖書を読んでわかることは、病気は罪ではありません。様々な困難に遭うことも罪ではありません。神の愛から離れ、神に背を向けることが罪なのです。神の愛を疑い信じない、このことを罪と言います。

人は罪を隠します。このことこそ、神がおられる証拠です。義なる神がおられるのです。罪を負うときに神から身を隠すのが人間です。しかし、罪のゆえに神から隠れてしまっている人を救い出してくださるのが主イエス様です。

大阪にいつも仕事から抜け出して礼拝や祈祷会を守っているご婦人がいました。この方は、大きな困難に遭い、神を否定したのではなく、それを受け止めて神を信じる生活を送っておられました。いつも輝いた笑顔を見せてくださいました。これは、主イエス様がそのお言葉の通りに私たちを集めようとしてくださっている証拠なのです。

聖書は言います。「イスラエルよ。あなたはわたしのしもべ。わたしが、あなたを造り上げた。あなたは、わたし自身のしもべだ。イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられることがない。」(イザヤ44章21節)昨日よりも今日神はあなたに近づいて来てくださっています。主イエス様は必ずあなたを救って下さいます。わたくしたちも心を開いて今日から主イエス様を救い主として受け入れましょう。

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