「涙」(ルカ22章61節) ( 10.15/2018 )
「主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、『きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う』と言われた主のおことばを思い出した。」(61節)

イエス様のお言葉か、私たちの力か、どちらで信仰を保つのでしょうか。ペテロが自分の力で信仰を守れなかったとき、主イエス様は叱責されたのではなく、愛のまなざしで彼を慰めてくださいました。しかし、彼が強烈に学んだことは主イエス様の主権の下に私共の愛も力も無力だということだったのではないでしょうか。しかし主はすべてを知って、分かったうえで受け入れてくださっています。

ひとりの救いの確信を持てない青年がある牧師のところに行き、どうしたら救いを得られるかと質問したそうです。すると、その牧師はあなたは海の中につかりながら水を求めるようなことをしていると、言ったそうです。彼は幸いにも別な牧師の指導を受けて救いに入れられたそうですが、ペテロのように熱心をもって得られるものでもなく、環境に入れられて受けるものでもないとすれば、どのようにして救いを得たらよいのでしょうか。

主イエス様のたとえ話によりますと、放蕩息子は父の下に帰って言った言葉は、「あなたの前に罪を犯しました」(ルカ15章21節)でした。私共に置き換えますと、救いへの道は、功績ではなく、神に対して罪を犯しましたと告白することなのです。
何も神に罪を犯したことはないと思われる方もおられるかと思います。しかし、聖書は言っています。「父のところに行って、こう言おう」(ルカ15章18節)父の言うことを聞かず、行いもせず、自分勝手な生き方をしていることを罪と言い、逆に回心とは、父の下に帰り、父のみ旨を行うことを言います。

「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(1コリント1章18節)ここに、滅び以外の道が明示されています。主イエス様が涙に代わる道です。
以前教会学校に来ている小学三年生の子どもたち(Aちゃん、Yちゃん)に救いの道を尋ねたところ、「イエスさまがわたしのためにじゅうじかにかかってくださったから」と答えてくれました。その時、彼女たちの強い後ろ盾である主イエス様を感じました。涙することはありますが、主イエス様がいてくださるのです。

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