「サタンの支配からの脱出」(使徒の働き26章18節) ( 10.21/2018 ) |
「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」(18節) 「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。」(14節) 聖書思想辞典(三省堂)683頁によれば、「苦しみは、神が愛の計画に基づいて、罪びとを清め義人を試そうと欲する手段であり、迫害は、悪い者がこの神の計画に逆らい、人間を神から引き離そうと試みる方策だ」とあります。つまり「律法による義についてならば非難されるところのない者」(ピリピ3章6節)と自負していたパウロは、よみがえられた主イエス様に出会って、主イエス様から「あなたは迫害者だ」と言われて初めて、自分は義人ではなく罪びとであり、サタンの支配下にある者、すなわち神に対する反逆者に過ぎないことに気づかされたのです。 パウロにとっての救いの道、すなわち「とげ」とは何でしょうか。それは、主イエス様が示された愛ではないでしょうか。私共がサタンの支配下にとどまり続けるなら、無事で居続けることはできないのです。主イエス様の愛によって傷つくのです。しかし、主イエス様の十字架の下に罪びとであることを認めて、「このサタンの縄目から解き放ってください」と言って主イエス様の十字架の血潮にすがるなら、主イエス様がサタンの縄目を断ち切って下さるのです。 ルカ15章の放蕩息子は父親の下に帰らなければ、悔い改めは成立しませんでした。父親の「保護」のもとに息子は帰ったのです。父なる神を私共が養うのではありません。父親、すなわち神から豊かな恵みを受け取るのです。その恵みとは何でしょうか。それは、罪のゆるしです。 神に罪をゆるされて初めてパウロの人生は変わったのです。彼は新しく生まれ変わったのです。私共も同様です。今日、サタンの縄目を切っていただくために主イエス様のもとに来て、祈る必要があるのです。主イエス様の血潮の力を信じる必要があるのです。そのとき初めて、主イエス様の十字架の力でサタンの支配から解放され、罪ゆるされ、新しい人生を始めることができるのです。 彼はこの主イエス様との出会いの後、謙遜にされ、神に対して感謝と愛をもつようになり、罪びとに同情できる人になったのです。律法を行えることをもって自分を支えていたパウロは、主イエス様に出会って初めて自分が迫害者に過ぎないことを知りました。しかし、主イエス様の愛はとげのように傷つけるだけでなく、彼を縛っていたサタンの支配を断ち切るものだったのです。このサタンの力から救われなければ、地獄について、金銭について、快楽について、地位について、時について、それらの問題から永遠に救われることはできないのです。パウロは主イエス様に出会って救われて初めて、これらの問題を「損」と思いました(ピリピ3章7節)。そして神の栄冠を目指すようになりました。 『塩狩峠』(三浦綾子著、新潮文庫)の主人公、永野信夫は祈りの中で神の声を聞きます。「お前はわたしの助けを求めて叫びつづけているではないか、」これが、自分こそ傷つき倒れ助けを必要としている重症の旅人なのだと気づいたきっかけでした。今日、もし、神に叫んでおられるならば、神の御子主イエス様にすがり、赦しを得ましょう。主イエス様には神を認めない傲慢の罪の傷の手当てをし、叫ぶあなたを助け出す力があります。 そして共に、身をささげてくださった神に身をささげましょう。 |
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