「土の器」(2コリント4章7節) ( 11.4/2018 )
「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」(7節)

(自分はこわれている。)なかなかこのようにじかくできる人は少ないと思います。しかし、使徒パウロは何のえんりょもなくこわれている自分のようすを語っています。8節、「四方八方から苦しめられている」と。もし、くるしんでいないなら、土の器でなく鉄の器なのです。しかし、苦しいと今感じておられるなら、それは土のように自分はよわい存在であり、こんごは鉄のようによそおう必要はないということを教えています。

にんげんかんけいも健康もしんこうも全部こわれている、それでもだいじょうぶです。神のはかりしれない力があなたのうちには与えられているからです。それは神からのものと認めざるをえないほど、力強いものです。

ステパノという初代教会のメンバーは自分が人々から石を投げられて傷つき息がたえようとするとき、ひざまずいてこう叫びました。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください」と。隣人を、そして自分をゆるせない、それは自分がこわれていることをみとめていない証拠です。もし、天をあおいで、(わたくしは今傷つきたおれています。)と祈ることができたなら、神のはかり知ることのできない力があなたのうちにあらわれるのです。

傷って何だと思いますか。使徒の働き7章にステパノをころした人々が出てきますが、ころされたステパノと、ころした人々の違いは、主イエス様をきょぜつしたことをみとめたか、みとめなかったかの違いでした。
さて、あなたは、すくいぬしイエス様にどのような態度をとっておられますか。(わたくしのつみのために十字架にかかって下さった主イエス様を今日までむししてきました。すみませんでした。わたくしは傷だらけで、いっぱい悪いおもいがこころの中にあります。たすけてください。)と祈りましょう。その時、神だけはあなたのうちにおられ、神のはかりしることのできない力は必ずあなたのうちにあらわれます。

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