「神の忍耐」(ローマ2章4節) ( 12.2/2018 )
「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」(4節)

神の慈愛を軽んじているつもりはなくても、自分を変えられない、そんな苦しみを私たちは持っているのではないでしょうか。
さばは、海で生活しているのに、死んで塩づけにされるまではその身に塩味はつきません。ところが、私たちは生きているつもりですが、世の悲しみや暗い感情にすぐに同調してしまいます。これは、いのちの問題です。
橋田壽賀子さんの脚本によりNHKで「いのち」というドラマが放映されました。このドラマで自ら命を助けられた経験を持つハルさんが、シベリア抑留のため不在地主になり、すべての土地を失ってしまう主人に仕えているせいさんに、「せいさん!死んだら何にもならないでしょう。」と言ってそのいのちを助けるシーンが出てくるそうです。生きていく上で避けられない苦しみをどのように乗り越えたらよいのでしょうか。
聖書は、いのちの持ち主をはっきりと約束しています。それは、私たちではなく主イエス・キリストです。「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」(ヨハネ20章31節)。

いのちの持ち主は主イエス様だとわかった。それでも、イエス様が送ってくださった聖霊を自分のうちに認め、その支配をこばむことが多いのではないでしょうか。どう対処したらよいのでしょうか。
神の救いの道は聖霊(御霊)でした。
わたくしたちの生まれながらの性質が神の支配を好まない、その力が絶大でどうにも手に負えないのと同様に、わたくしたちが主イエス様の十字架と復活を信じることによって働いてくださる聖霊の神としての力も同様に絶大なのだと教えています。すなわち、ゆるせない人をゆるせるように神の力が働くのです。「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」(ローマ8章2節)

いつ、私共はこの神の愛を受け入れることができるのでしょうか。自分の考えをすて、神の救いの方法を受け入れることができるのでしょうか。「神の慈愛があなたを悔い改めに導く」と約束されています。

昔、八王子の福祉事務所に山岸さんという方がおられて、その方は、クギをひろって集め、出かけるときには数本持ち歩いて、壊れている家の修理をしてあげたり、そのクギを売って、お金に換えて、そっとお金にこまっている家に置いてきたり、と用いておられたそうです。
もし、わたくしたちが主イエス様の手に握られたなら、今よりももっとすばらしい生き方ができるのではないでしょうか。主イエス様に見出されるなら神の慈愛は必ずわたくしたちの生活に実を結ぶのです。まず、少し受け入れて、変わってみませんか。あなたには、あなたを愛してあなたを待っておられる慈愛に富んだ神が、おられるのですから。
(参考図書『世の光―かけがえのないあなたに』羽鳥明、村上宣道、榊原寛著 太平洋放送協会)

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