「ここに愛がある」(1ヨハネ4章10節) ( 12.24/2018 )
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
(1ヨハネ4章10節)

クリスマスおめでとうございます。しかし、聖書を読みますと御子はなだめの供え物として遣わされたと証言されています。
ある北海道の教会の牧師婦人が神様を知ったいきさつは、宣教師の先生が「あなたの心の中にある思いを全部紙に書いて、自分の背中にその紙を貼って街を歩いてみなさい。」とおっしゃってくださったこの一言で自分の罪を知ったそうです。すなわち、(そんなことできない)と心の中で叫んだ瞬間、本当の神様は私共の心の中まですべてを知った上で、こんな私を受け入れて今命を与え生かしてくださっているのだと知り、同時に、今まで神ならぬものを神であるかのように慕い求めてきたことが罪であったと知ったそうです。そしてこの時を機に、この先生の心の重荷が下りたそうです。

では、どうすれば、神に出会えるのでしょうか。神は御子を遣わしたというのが今日のメッセージです。それも、私たちの罪のため、なだめの供え物として遣わしたというのです。恐らく罪と密接に関係しているところに御子はおられます。

ルカの福音書7章36節以降に、ある律法の教師がイエス様を食事に招いたという記事があります。そこに現れたのはひとりの罪深い女でした。そしてこの女は主イエス様の足を自分の涙で濡らし、自分の髪の毛で泥をぬぐうのです。ここではパリサイ人のイエス様を迎える態度に問題があったことが指摘されています。女は罪深い者として非難されていますが主イエス様のために涙を流し、一方、律法の先生は主イエス様への愛を少しももっていなかったのです。
トルストイが書いた靴屋のマルチンも神を愛せない人のひとりでした。しかし、神にどのように仕えたらよいかわからず悩むマルチンのために、「今夜、わたしはあなたのところに行くよ」という声がかかるのです。そして彼が出会ったのは偉い人々ではなく、貧しく弱い人々でした。そしてトルストイはこの物語をマタイの福音書25章40節でしめくくっています。「すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」

主イエス様は罪深い人、貧しい人のところには来てくださらないのでしょうか。主イエス様は来てくださったのです。十字架の上で私共の罪を負ってくださいました。そして、私共が赦され、愛され、信じることを望んでくださっています。「それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。…あなたの罪は赦されています。…安心して行きなさい。」(ルカ7章47節〜50節参照)主イエス様は罪を赦すために来てくださいました。あなたのこころにも神の愛のしるし、あなたの罪のために来てくださった主イエス様を受け入れてみませんか(マルチンのように最も小さい人を愛してみませんか)。

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