「十字架を負う」(マルコ8章34節) ( 1.11/2019 )
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マルコ8章34節)

今年、私どもの教会では昨年に引き続いて会堂建築に取り組んでいく予定です。そのために予想されるのは経済的な必要であり、また、このことを通して神様との交わりを深めさせていただきたいと思っています。

自分の十字架を負うには、まず自分を捨てるようにと教えられています。自分自身をその人生と行動で形作ることを止めてしまいなさいと勧めています。次に、自分の十字架を取ること、すなわち、ここに描かれているのは十字架刑という有罪判決を受けた者であり、避けられない必修の運ぶべき自分の十字架と職務遂行の場所が定められているということです(ヨハネ19章17節)。十字架の意味は、主イエス様のために受ける苦しみと死をいとわないで喜んで受けるということです。そしてわたしについて来なさいとは、最終的に十字架にはりつけにされた彼の死に方も含めて、ついて来なさいと招かれています。

イギリスの女流作家ヴィーダ(本名はマリー・ルイーズ・ド・ラ・ラメー)が「フランダースの犬」の中で描いたネルロは、アロアのために落ちていた人形を届けたことがあだとなって火事の犯人に疑われ、ミルク運びの職を失い、飢え、祖父を失い、住む家を失い、落ちていた財布をひろって持ち主に届け、ついに教会で息を引き取ります。しかし、最後に彼はルーベンスの絵を見て祈るのです。「ぼくの 見たかった絵だ。 ありがとう、かみさま。しあわせです。」と。
ルーベンスの絵には主イエス様の足元を担う男の姿があります。彼らはイエス様の御顔を直視していませんが懸命に働くのです。また、そんなネルロのためには、最後にパトラッシュが駆けつけて絵のおおいを降ろし、暗がりの中に神様は雪を止ませ、月のあかりをさしこませて絵は照らし出されるのです。
神様に与えられた人生を精一杯生きて、神様に慰められて「ありがとう、かみさま。しあわせです。」と祈れる人生にしていただこうではありませんか。

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