「神のみこころに添うこと」(2コリント7章9節) ( 1.21/2019 )
「しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことによって、私たちを慰めてくださいました。…今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。」(6節、9節)

使徒パウロがコリントの教会の人々に神のみこころを伝えたとき、彼らは悲しんだのですが悔い改めることができたと、この7章では証しされています。わたくしたちは神のみこころに対して、(実行することは無理だから聞くのをやめよう)と思わなくて良いということがこの7章からわかるのです。みこころに添いたいと願いさえすればよいのです。

なぜ失敗を繰り返し、神のみこころをあきらめてしまうのでしょうか。どうして、神は自力で救われることを許されないのでしょうか。マーレ―という注解者は聖書の言葉を説明してくれています。「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(1ヨハネ1章7節)(私たちが神に喜ばれることをしているという良心のあかしで人生を送ろうと努めるにしたがい、ますます私たちは自分が驚かされる失敗の時も、常にすぐきよめる力のある御血を仰ぐ自由を覚えるようになることでしょう。そして、私たちは内側の罪悪性とあらゆる無自覚な働きも、その御血によっておおわれていることを、いよいよ強く確信することでしょう。良心に注がれた血は、とどまって永遠のいのちの力に従って間断なく働き、完全に救うという変わることのない祭司のわざをします。)※1と。

また、信仰はどこから来るのでしょうか。使徒の働き11章18節は、「人々はこれを聞いて沈黙し、『それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ』と言って、神をほめたたえた。」と、神こそ悔い改めの与え主であることを教えています。

悔い改めとは、自我に支配される生活から神に従う生活に入れられることです。このコリント人への手紙第二の7章で考えますと、「悲しみ」を、ただの悲しみと考えず、「神のみこころに添った悲しみ」ととらえることです。悲しみの責任を相手に求めず、自分が神のみこころにかなっているか問うことです。ここで気落ちしていたパウロが慰められたのは、神が悔い改めの与え主であることを、コリント教会をとおして知ったからでした。神のみこころは、神がおられるのであきらめなくてもよいのです。

これは伝説ですが、ペテロがローマにもどったきっかけは、ローマの都の門でローマに向かうキリストに出会ったことだったと伝えられています。その時交わされたのは、「また十字架におかかりなる?」。「そうです」という会話だったそうです。塩狩峠の牧師の説教にも、「悪いものが悪くないと言って逃げる」というセリフがありますが、キリストの行かれる所にキリストと共に進んでまいりましょう。そこは、悔い改めの場です。ペテロは十字架につけられる前に自分が伝えてきたことについて、「主イエス・キリストの十字架だけが私の誇りです」と証言したそうです。私共もそれぞれ神のみこころをあきらめないで問いましょう。恐らく主イエス・キリストの十字架だけが残るのではないでしょうか。

あなたにキリストが「わたしはもう一度十字架にかかる。」とおっしゃったらどうなさいますか。弱さがあるのも事実ですし、キリストがよみがえられて語ってくださっているのも事実です。さて、わたくしどもの悲しみは。

(※1 アンドリュー・マーレ―著『キリストの御霊』204ページ いのちのことば社)

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