「慰め」(エゼキエル31章16節) ( 1.27/2019 )
「わたしがこれを穴に下る者たちとともによみに下らせたとき、わたしは諸国の民をその落ちる音で震えさせた。エデンのすべての木、レバノンのえり抜きの良い木、すべての水に潤う木は、地下の国で慰められた。」(16節)

この31章はエジプトに対する預言ですが、北にはメディアと新バビロニアがいて、アッシリヤは紀元前609年に滅びました。アッシリヤが神の裁きに遭い滅ぼされるのと同様にアッシリヤを支援していたエジプト(紀元前671年以降アッシリヤの支配下にありました)も打たれることになると預言されています。その理由は高ぶりのためと10節と14節に記されています。

16節に「慰められた」と、アッシリヤの人々が慰められるというのですが、それは「地下の国」においてであると語られています。肉体を離れた霊的な世界があるというのです。

アッシリヤと比較できないほど栄えたエジプト(2節)もアッシリヤと同様に地下の国に行くことになるのです。アッシリヤのように、(エジプトも下ってきた)という慰めでなく、誰かこの死の問題の解決を知っていないでしょうか。

パウロという有名な伝道者はこう言いました。「私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。」(ピリピ1章23節)主イエス様の救いに与るなら、肉体を離れた霊の世界にこそ喜びが待っていると告白しているのです。それは、死後の裁きを知っていたからでした。「そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」(2コリント5章9節〜10節)

ヘンリー・ヴァン・ダイクが書いたアルタバン物語の主人公は、イエス様の誕生をお祝いするために33年間旅をし、最後は「血の気のないアルタバンの顔に、驚きと喜びの輝きがほんのり浮かび上がりました。そして、安どしたように長い息がかすかに唇から洩れ出ました。」で終わります。彼は主イエス様を礼拝するために用いたすべての物を彼は失ってしまったと思っていたのですが、70歳を過ぎて死の直前に「おまえがわたしにくれた宝石を、わたしは全部、持っています。」という主イエス様の声を聴くのです。彼にとっての慰めは主イエス様からかけられた御声だったのです。エジプトやアッシリヤのように高さを求めるのではなく、主イエス様を礼拝することを求めてみませんか。

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