「主が共におられる」(創世記39章3節) ( 2.25/2019 )
「彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。」

旧約聖書にヨセフの名は258回登場しています。ちなみに、イスラエルは2552回、ヤコブは388回、イサクは129回、アブラハムは184回、アブラムは69回、アブラハムよりも少し多い、それほどヨセフは神様に愛された人物です。

「主が彼と共におられ」と主と呼ばれる神がおられることを知ることができます。そして、主が成功させるかどうかを決しておられるのを見たと証言しています。

このように主が共におられたヨセフと対照的なのがヨセフの主人の妻です。彼女は神以外のものから喜びを得ようとしました。今日考えなければならないのは、私共はこの主人の妻に近い生活をしていないかということです。

今日学ばなければならないのは、

1、主(神)がおられる
2、罪を喜ぶ弱さがある
3、罪を悔い改めて神に立ちるために主イエス様はおられる

という3点です。

ヨセフは兄弟の手で穴に突き落とされ、奴隷として売り飛ばされ、悲しみを知っていた人でした。しかし、恐らく彼は悲しみの中で神が生きておられることを知りました。そして、神以外の喜びを退けるようになりました(創世記39章9節)。

ヨセフのような優等生は世に少ないのではないでしょうか。恐らく、皆罪人です。姦淫の女を責めるために集まることができても、きよい神の前には立てないそんな者たち(わたくしたち)です。ヨハネの福音書の8章には、自分の罪を責められそうになった時に、年長の者から立ち去ったと記録されています。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」(イザヤ53章6節)ここに、自分勝手な道に進む者の咎を主イエス様に負わせたと記されています。

それを計画し実行されたのは主です。ゆえに罪の快楽は悔い改めて、神と共に歩む喜びを日々を求めましょう。主イエス様だけは裁きの場に共に立って、赦しを与えてくださるお方だからです。私共を罪に定める人々はその場に居続けることすらできない罪人たちです。ただ、主イエス様だけが私共の罪を担い、今も共にいて主の御前で赦しを与え、「今後は罪を犯さないように」、と語りかけてくださるお方です。

罪以外の喜びを知る者となりましょう(もっと神を知りましょう)。罪深い者であることを知った上で受け入れ、背負い、罪のない将来を期待してくださる主イエス様がおられるからです。
(主と主イエス様との関係はどんな関係なのでしょうか。それは、父と子の関係です。ヨハネ3章16節に「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちをもつためである。」とあります。)

昔、ひとりの酋長が自分の娘の死に際して、娘とともに死んだそうです。それは、娘の死と代わってあげたかったけれども、代わることができないからでした。神が私共を愛されるときに、自分が抜け殻になってしまうほどの大きな犠牲を神は払っておられると聖書は証ししているのではないでしょうか。

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