『み顔をかたくエルサレムに向けて』(ルカ9章51節〜62節) ( 4.1/2019 )
「イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ、」(51節)

序.春先は心のバランスを崩しやすい時期という。環境の変化に心がついていかない。私たちが前に進むために必要なのは確信。主イエスの強さの秘訣はただ一つの目的のために生きられたことにある。それは十字架。それは苦難の道、しかし、栄光の道。主が十字架に向かって真っ直ぐ歩まれた姿を見て参りたい。

1.み顔を固くエルサレムに向けて(51-53節)

ルカの福音書は、1)北のガリラヤ伝道、2)エルサレム途上、3)エルサレム(受難・復活・昇天)に分けられる。中でも2)エルサレム途上に10章も割いているのが特徴的。その内容は1)の大衆伝道期に対し、2)では弟子教育がその中心。その転機は51節「天に上げられる日が近づいて来た」。「満期になった」。機が熟した。主イエスの降誕にも千年以上の準備期間。ついに、「時満ちて」(ガラテヤ4:4文語)、すべてが整って御子が地上に生まれられた。主イエスは生まれた時から十字架に向かって歩んだ。いや生まれる前から(詩編40:7、8)。しかし、ここに来て、9章前半にあるように弟子のペテロによるメシヤ告白、第一回受難告知、変貌山において、主はいよいよ十字架による全人類の罪の贖いという使命に心を集中された。「み顔をまっすぐに向けられ」。イザヤ書には「顔を火打ち石のようにし」(50:7)。周りの弟子達が恐れを抱くほどの気迫で主イエスは先頭に立ってまっすぐ十字架の立つエルサレムに向かわれた。なぜそれができたのか。それは父なる神と心が一つだったから。「みこころを行うことを喜びとします」(詩編40:8)。自分に有益だから、楽しいから喜ぶのではない。喜ぶという選択。固い意志。それがたとえ苦難の道であっても、自分の願いが叶わなくても、今はその意味が分からなくても、主のしもべ(詩40:6)として主に従うことが喜び。信じる人は従うことができる。従いたくない、という人は信じられていない人。神をしもべのようにしてはいないか?神のしもべとして喜べているか?

2.独りよがりの従順(54-56節)

サマリヤの人々はイエスが英雄ではなく、受難の僕となることを拒んだ。私たちも?主の弟子と言いながら、かえって主を悲しませることがある。ここでのヤコブとヨハネ。彼らは主を喜ばせていると思っていた。しかし御心に反していた。愛するとはまず、知ること。心を知らずに愛するといってもそれは自分勝手な、独りよがりの、自己満足の愛。それはかえって相手を悲しませてしまう。主の心と一つになることが本当の従順。本当の愛。

3. 神に従うことを妨げる三種目(57-62節)

1)安逸。「どこにでも」と言いながら自分の都合が悪い所には従えない。好条件あっての、安易な「従順」。それをイエスは見抜いておられた。

2)情。親孝行を否定してはいない。しかし、親しい者と神を並べるところが間違い。神を捨てるなら結局双方が滅びに。神を取るなら親しい者にも救いが。

3)二心。鋤を扱うのは集中を要する。よそ見をするなら失敗。信者は兵卒にも喩えられる(Uテモテ2:3-6)。兵卒がよそ見をするなら自分の死を招く。

おわりに. 顔をエルサレムに向けて

エルサレムとは、「お前の神はどこにいるのか?」と罵声を浴びる場所。十字架の道は避けようと思えば避けられる道。しかし、主と共に神を仰ぎ、待ち望む者に神は栄光を授けられる。十字架の道は苦難の道、しかし勝利・栄光の道!
(説教者 田代美雪牧師)

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