夜明け・・・「新しい創造」(マタイ5章45節後半) ( 1.23/2011 )
「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイ福音書5章45節)

イエスの歩まれた生涯は新しい世界への歩みでした。その神の国という新しい創造的世界に向かって今日の中心聖句の言葉を語っておられます。

イエスの生涯には大きな三度の転換期(イエス自身の世界観の変貌)がありました。最初は自分の家を出て各地を巡りながら差別された人々と触れ合った事。二度目は荒野の預言者・洗礼者ヨハネに師事した時、三度目はそのヨハネの元を去り、裸になって自らガリラヤの町々を弟子達と共に巡り歩きながら「神の国」の宣教を開始した時です。ここに今日の聖書の言葉を理解する鍵となる体験があったものと思われます。

洗礼者ヨハネは「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか・・・我々の父はアブラハムだなどと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」(マタイ3章8−9)と、神には無価値な石からでも約束の民を創造することができると語っています(特定の民族・国家に属する事自体に救済の根拠はない)。すなわちイエスは、洗礼者ヨハネから「民族主義的救済思想の否定」と「神の判断の普遍性」を受容しています。

その後ヨハネの元を去り、自ら各地を巡りながら癒しと宣教を行い、差別された地域の人々(ガリラヤの町々の人々)と交わりを通して、「貧しい人々は、幸いである(ルカ6章2)」世界、「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る(マタイ5章8)」ような世界、、「人が安息日のためにあるのではない(マルコ2章27)」世界、「盲人はたちまち見えるようになる(ルカ18章43)」世界、更に「野原の花が・・・働きもせず紡ぎもしない・・・栄華を極めたソロモンでさえこの花の一つほどにも着飾ってはいなかった(ルカ12章27)」ような世界を伝えました。この新しい世界とは創造的であり、まさに神の創造の回復・・・本来ある、あるいは本来あるべき世界への回復・・・すなわち、彼にとって父なる神による「神の国」のイメージの啓示でした。父なる神が「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」ような世界であったのではないでしょうか。

けれども、イエスが語った「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ(ルカ11章20)」のように、新しい世界はすでに来ているのです。しかし、ほとんどの人はそれに気が付きません。

イエス復活の証人となったパウロは、こうしたイエスの存在を神の啓示と信じ、民族の枠を超えた異邦人宣教に奔走しました。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた(コリント信徒への手紙2 5章17)」と、新しい創造世界を伝えます。ヨハネ黙示録の著者が夢見た、天から降ってくる新都エルサレムと言う表現も、「新しい世界」への希望の現われだったのでしょう。イエスはすでに到来していると語っております。イエスの言葉に従えば、すでに夜明けを迎えていると言えるかもしれません。

神は無条件で、善人も悪人も、正しい者も正しくない者も愛し受け入れてくださっているのですから、すべての人が本来あるべき者(清い正しい者)へと変えられるようにと祈り、更に神の力が実現されるように願うのが教会なのです。今日も神は私達にも太陽を昇らせてくださいます。そしてその驚きと感謝が神の国なのです。私達は「本来あるべきものと」なり、互いを受け入れ合い、助け合いながら、神の国の実現を喜び合う者となりたいと祈ります。

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