「どうして」(マルコ15章34節) ( 4.15/2019 )
「そして、三時に、イエスは大声で、『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。』と叫ばれた。それは訳すと『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』という意味である。」(34節)

序論

イザヤ書53章10節には主イエス様の十字架の意味を教える預言があります。「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」それなのに、主イエス様は十字架上で「どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と、「どうして」と叫ばれました。神のみこころを行われた主イエス様が神に見捨てられるという十字架の出来事を通して神の御思いを尋ねましょう。

1.わたくしたちの罪を除くため

喧嘩や戦争、隣人を愛することをやめいじめる行為は学校でも、大人が働く職場でも日常存在します。悔い改める機会はいつもあるのですが、神に立ち返り、赦し愛し始めることがなかなかできていないのが私共の日常ではないでしょうか。私共は個人的な謝罪という解決の道しか知らないのではないでしょうか。神はご自身の義を立てるためにご自身のひとり子である主イエス様に人類の罪を負わせました(ヨハネ3章16節参照)。どうしてそこまでする必要があったのでしょうか。神を愛し、隣人を愛せよという戒めだけで神に立ち返れないのでしょうか。聖書には「律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」(へブル9章12節)と記されています。
もし、だれかひとりでもゆるせない人がいるのならば、主イエス様が流してくださった血を信じて悪しき霊の力から救っていただきましょう。そして今日から、神のみこころを行うことを、すなわち造り主である神と隣人を愛する人生を始めましょう。

2.神は罪を嫌われる

「どうして」と聞いて、頭をかしげる人々が世にはたくさんいると思います。なぜなら、大半の方々は教会にも来ないで、神に栄光を帰することに全く関心が無いからです。すなわち、どうしてというのは、疑問形ですが、世の大半の方々は神に見捨てられることを望んで生きておられるのです。いや、神から自由になりたいと願っておられるのかもしれません。
しかし、真実はどこにあるのかと言いますと、神は罪をもった者に御顔を向けることはできないのです。神は罪を嫌われるのです。主イエス様が人類の罪を負ってくださったとき、どんなに愛する対象である主イエス様であったとしても御顔をそむけざるをえなかったのです。

結論

主イエス様は十字架上で「どうして」と叫ばれました。この言葉は罪の重さを教えてくれています。私共は罪の重さに慣れすぎているのです。すなわち、神から離れることが救いなのではなく、神の御顔を見る生活に救いがあるのです。では、どうすればよいのでしょうか。罪を避けましょう。顔を上げ(創世記4章5節、6節)神にお詫びし、お従いして神のお気に入りになりましょう。

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