「愛を問う」(ヨハネ21章15節) ( 4.21/2019 )
「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」(ヨハネ21章15節)

序論

「そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」(1コリント15章14節)キリスト教は復活を宣べ伝えています。人は死んで終わりではないのでしょうか。

1.人は死後裁かれます

人はやがて死ぬのですが、死後二つの道に分けられます。すなわち第一の復活と第二の復活に分けられます。第一の復活にあずかる人々は「また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。」(ヨハネの黙示録20章4節)主イエス様を信じる信仰のゆえに殉教した人々です。この人々には第二の死は何の力も持っていません。
第二の復活、それは第一の復活にあずからなかった人々が例外なく受けるもので、主イエス様によって裁かれます。「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。」(ヨハネの黙示録20章12節〜14節)
復活するのですが、神の御前において裁かれるために復活するのです。

2.罪とは

罪とは神の性質である愛(1ヨハネ4章8節、16節)に反することです。自我を神の立場に置くことということができます。具体的には、律法に一致しない状態(アノミア、1ヨハネ3章4節)、神に似ない性質(アセベイア、ローマ1章18節、ユダ15節)、曲がった行為(アディキア、ルカ13章27節、使徒8章23節)、律法を犯す行為としての罪(パラバシス、ローマ4章15節、へブル2章2節)、正しい道を踏み外すこと(ハマルティア、マタイ1章21節)、神の慈悲と救いとを拒絶すること(ぺしゅー、アモス1章13節)、他の神々に従ってそれに仕えること(あーうぉん、エレミヤ」11章10節)、目標や道を誤ること神への冒涜(はーたーと、ヨブ1章22節、詩篇78篇32節)。

3.主イエス様は復活された

「あなたもガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」(マタイ26章69節)このように主イエス様の仲間であるかどうかを質問されたとき、ペテロという弟子はみなの前でそれを打ち消してしまいました。これは主イエス様が裁判にかけられているとき、外の中庭での出来事でした。しかし、よみがえられた主イエス様はこの弟子のためにご自身を現されて「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」(ヨハネ21章15節)と質問されました。罪を犯したからもうおしまいなのではありません。主イエス様は悔い改めの機会を与えてくださいます。

結論

ペテロは「あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」で、わたくしは「神に罪を犯すことができましょうか。」(創世記39章9節)で救っていただきました。主イエス様は死からよみがえられました。主イエス様はあなたにも聖霊によってみことばを通して働きかけ、罪と永遠の滅びから救ってくださいます。

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