『エマオからエルサレムへ』(ルカ24章13節〜35節) ( 4.30/2019 ) |
「すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間 が集まって、」(33節) 序.イースター(復活)は朝に起こった。十字架は夕方。私たちの生活にも夜の時がある。しかし、朝の来ない夜はない。「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」(詩編30:5)。そして、この復活の朝は再臨の希望をクリスチャンに与えている。今は夜更けの時代。私たちは復活を記念しつつ、再臨を待望する時代の中に生きている。 1.群れを離れた弟子(13節) 主イエスの復活によって喜びに満ちた女性達とは反対に、それを聞いても何の感動も受けず、イエスに失望し、復活の場であるエルサレムに背を向けて離れ去ろうとした弟子達がいた。エマオ途上の弟子達。人は悲しみに堪えられなくなる時、人の集まりから遠ざかりたくなる。しかし、信仰者にとって信者の群れから離れるのは危険信号。インターネットで礼拝を守っていると思う時代。しかし、神は聖徒の交わりを愛される。交わりは恵みの場。そこを厭うと恵みから遠ざかる。信仰があやふやになる。神は交わりの神だから。模範的な信徒であることを神は期待してはおられない。ユテコでも良い。ただ、群れから離れることを神は心配される。 2.ひとりを追い求める神(15節) 主イエスは群れから離れる人を追い求めた。神が求められるのは、いつもひとり。人々の記憶に残らない一信徒であっても、神はその魂を追い求められる。 その近づき方は謙遜。旅人の姿で。隙だらけ。誰でも話せる方として。弟子達は主イエスに気づかない。悲しみで目がふさがれていた。神は目を上げさせたかった。信仰とは仰ぐこと。悲しみの中に陥ると人は自分中心になる。その人に主は寄り添って歩まれた。悲しみを十分に吐露させた。神は無理に人の心を開けようとはされない。人が自分からそのドアを開けるのを外で待たれる。 3.真理を開かれる神(25節) 主イエスはついに真理を開かれた。悲しみで冷えきった心に御言葉の灯を灯 していかれた。苦難があることが悲しみの原因ではない。側に助け主がおられることに気づかないことが本当の原因。彼らはだんだんと真理が分かり、すべての出来事に合点がいってきた。バラバラの出来事の意味がつながってきた。 悲しかったどん底と思えた出来事に最高の意味があったことがわかった。更に神を求め、引き止め、家に迎えた。普段の生活の姿を取られた時、あの生活を共にした主イエスの姿を認めた。彼らの心は喜びに満たされた。もう神が目の前に生きていなくても、共にいてくださる神によって喜びに満たされた(Tペテロ1:8)。彼らはもう一度、信徒の群れに戻った。そこで他の弟子達と一緒に神を礼拝した。 おわりに. 続く約束「エルサレムを離れないで」(使徒1:4) 主イエスは、更なる祝福、地上では最大の祝福である聖霊を受けるまで待て、と言われた。その場所はエルサレムで。他の信徒と心を合わせて待て、と。 エルサレムはわたしの救いの場所。十字架による罪のあがないと復活による新しい命の始まり。そして同じあがなわれた者達がキリストの体として一つに集まる教会の場。かけはあるが完成を目ざし、主の来られる日を共に待ちたい。 (説教者;田代美雪牧師) |
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