「信仰によって」(ガラテヤ2章20節〜21節) ( 7.8/2019 )
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(20節)

分解

1節〜10節 エルサレムにて、割礼問題
11節〜14節 割礼派を恐れる人々への叱責
15節〜21節 義とされるために壊したもの、そして神から受けたもの

序論

義は律法によってではなく、主イエス・キリストに従うことによって得られると書いてあるのがこのガラテヤ2章です。

1.割礼とは

アブラハムが神と契約を結んで後、命ぜられ、その後エジプトを出て荒野を導かれる間は守られていなかったが、ヨルダン川を渡った直後にヨシュアは割礼を執行しました。神との契約のしるしとされていましたが、ガラテヤ5章2節、コロサイ2章には、旧約時代にこころのきよめの象徴とされた割礼を禁じ、肉のからだの一部ではなく、全部を切り捨てることを勧めています。それがバプテスマ、洗礼です(コロサイ2章10節、11節)。

2.人は何によって救われるのか

救いとは何かと定義しますと、永遠の義である神が、完全な義をもって公正に人間の存在、また行為を裁かれるのですが(ローマ書2章、291頁)、神は主イエス様に従う道を与えてくださいました。「人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。しかし、もし私たちが、キリストにあって義と認められることを求めながら、私たち自身も罪人であることがわかるのなら、キリストは罪の助成者なのでしょうか。そんなことは絶対にありえないことです。」(ガラテヤ2章16節、17節)

3.神の御子を信じる信仰の道

この教会に初めて来られた方で第一に違和感をおぼえるのは、教会に集っている子どもたちが牧師、牧師夫人のことを「おっちゃん、おばちゃん」と呼んでいるところだったのではないかとおもいます。この子どもたちは、かわいそうですが時間の無駄です。もし(先生)と心の中で思うことができなければ、そう呼べないのです。主イエス様に対しても同様です。イエス様を主として信頼できず、聞き従い生活を改めることができないならば救われることはないのです。しかし、本当に助けを求めておられて、主イエス様に聞き従うならば、悪しき力から救われます(マルコ3章23節参照)。

結論

もし救を求めておられるのなら、私たちのためにご自身をお捨てになった神の御子を信じ、聞き従いましょう。主イエス様は生きておられます。信頼して祈るなら必ず聖書の言葉とともに答えを与えてくださいます。聞き従ってみてください。

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