「ご自身の血で」(使徒の働き20章28節) ( 7.16/2019 )
「あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」(28節)

序論

妻から「神をのろって死になさい」と言われた人物がいます。それが、ヨブです。最初は言われた側のヨブに同情したのですが、更に考えますと、そのような気持ちで生活しなければならなかった妻のほうがつらかったかもしれないと感じるのです。この夫婦どうなるのでしょうか。神はヨブを取り扱い、ヨブは変えられます。その時、ヨブに神が語られたのはカバやワニについてでした。その時彼は自分が神のものであることを認めるのです。では、私たちに神が語られる場はどこなのでしょうか。それは教会です。教会は神が私共を取り扱われる場です。私共が神を知るために神が与えてくださったものとは、

1.神の顕現

ヨブは大病を患っている中で、神に出会います。ある神学校の校長をされた牧師は「自我性は、恵まれれば信仰の高慢に陥る」と解説されていましたが、ヨブが神に出会ったのは神がレビヤタン(ワニ)について語られた時でした。彼は「彼われを殺すとも我は彼に依頼まん」(ヨブ13章15節文語訳)、という強い信仰があり、「わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる」(ヨブ19章25節)と、贖い主を認めていました。しかし、彼はその信仰を盾にとって他に当たり散らしたことを神に諭されるのです。そして、「天の下にあるものはみな、わたしのものだ」(ヨブ41章11節)との御声を聞き、神によって真の信仰者(死者、ワニ)へと造り変えられます。ヨブが全く砕かれ、空しくなったとき、主ご自身がヨブの生活の中にはいって来られ、敵のために祈る全き愛を与えられ、実を結ぶ生涯に入れられました。

2.神ご自身の血

教会に集っている方々にとっての神の顕現とは神ご自身の血です。(神を見たら信じる)というお方がおられましたら、歴史上に現されている主イエス様の十字架を見てください。そして神の愛を見ていただきたいのです。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15章13節)神は私共の犠牲のゆえに、私共を受け入れてくださるのではありません。私共を受け入れるために神がご自身をささげてくださいました。わたくしたちが十字架の下に全く砕かれ、溶かされ、むなしくされ、灰塵とされるとき、神はご自身を現わし、私たちを満たし、占領し、私たちのうちに宿り、また歩み、栄えの器として全うしてくださるのです。

3.教会とは何なのか

教会とは神がご自身の血で買い取られたものです。神の愛をあかししているのが教会の十字架です。私共には罪がありますが、その罪人を見捨てるのではなく、滅ぼすのでもなく、神はご自身の血で買い取って下り、サタンの支配から解き放ってくださり、ご自身のものとしてくださいます。すなわち、神に買い取られた人々の集まりです。
なぜ、病があるのでしょうか。神が全人類を愛してくださったのなら、なぜ病があるのでしょうか。恐らくですが、私たちの不信仰をいやすためです。「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」(詩篇22篇1節〜3節)前半は主イエス様の十字架の上での訴えのことばですが、つぶやきではありませんでした。なぜなら、「あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」との信仰があるからです。神は私共のために最善をなしつつあられます。神は私共の不信仰をも癒してくださいます。11年間リュウマチで苦しんだクリスチャン女性は「おつらいでしょう?」と声をかけらえたとき、こう答えたそうです。「いいえ、神は特別に私を愛して鍛えてくださるのです」「神の恵みを数えて感謝していたところでした」と。「忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う…」(ヤコブ5章11節)

結論
十字架の下に来て、不信仰が癒されるとき、御子イエスの血で罪がきよめられたことを自分にあてはめ、受け入れることができます。(1ヨハネ1章7節)。そして不信仰が癒されるとき、信仰が与えられます。信仰とは神を自分のものとして握る力です。(ローマ8章32節)。 

(参考図書 沢村五郎著「聖書人物伝」いのちのことば社、65頁他)

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