『三種の人』(マタイ2章1節〜12節) ( 7.21/2019 )
「幼子を見、ひれ伏して拝んだ。」(11節)

序.この箇所には御子イエス・キリストの誕生を知った人々に三種類の反応が
あったことが記されている。どのような反応であったのか。

1.神に対する恐れ、敵意、殺意(3節)

ヘロデは猜疑心の強かった王。身内を次々と殺した。「ユダヤ人の王」と言われる存在を抹消しようとしないはずがなかった。町の人々はメシヤの待望者だが、ヘロデの起こす惨事に疲れ、事なかれ主義者に。真理より平穏を求めた。
ヘロデは神を恐れず、神を否定し、抹消しようとする人間の型。人は神を好まない。困難な時、「助けて」と祈ることがあっても、いざ神が自分より前に出ようとするなら牙をむいて抵抗する。それが人間の姿。「神を求める人はいない・・・ひとりもいない」(ローマ3:11)。このヘロデの敵意は神を抹消しようとして周囲の罪なき幼児の虐殺にまで悪事を広げた。この引用の続きには慰めが語られる。夜明けは間近。しかし、神に敵した彼は数ヶ月後、孤独な病死。

2.神に対する無関心・冷淡 (4-6節)

二番目のグループは祭司や律法学者。ユダヤでは何千年もメシヤ(キリスト)の到来を待望していた。しかし、実際にキリストを礼拝したのは、神殿に入ることを拒否されていた羊飼い(ルカ書)と異教の国から来た異邦人。
どんなに礼拝・奉仕・聖書知識に熱心であっても、もし、神を愛する心に欠けているなら、そこに命はない。喜びがない。「神を愛する人々・・・のためには、神が・・・」(ローマ8:28)とある。神が見られるのは人の心の真ん中。「愛の反対は、憎しみではなく、無関心」(三浦綾子)。神は冷淡な心を悲しんでおられる。

3.神にひざまづいた人々 (10-12節)

神に対する敵意・冷淡・事なかれ主義が渦巻き不穏な空気が淀んでいたエ
ルサレムの町中に、「その方の星を見たので、拝みにまいりました!」との声
が高らかに響きわたった。彼らは遠い旅の犠牲も危険も顧みず、贈り物を真に礼拝すべき方に献げるという唯一つの目的を果たすためにやって来た。
 「ひれ伏して」とは「ひざまづいて」。なぜ膝をついたのか?それは相手が幼子だったから。神の位を捨てて、人となり、その中で最も弱い存在の幼児として来てくださった神を礼拝することができるのは膝をつくことができる人。
「子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。」(マタイ18:3)
 彼らは「別の道から・・・帰って行った」。神に出会った人は、出会う以前と様子が様変わりする。キリスト教は教えではなくお方様。キリストご自身に出会うこと。神との個人的な交わりをもつこと。それがその人を変える。

おわりに.ひざをかがめて

キリスト生誕の場所にある教会の門には小さな入り口しかない。小さな子ども身をかがめないと入れないそう。私たちも神に抵抗するのを止め、神を愛する思いを起こさせていただき、神にひざまづいて礼拝する者とならせていただこう。
(説教者 田代美雪牧師)

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