「名を惜しまれる神」(エゼキエル36章21節) ( 7.29/2019 )
「わたしは、イスラエルの家がその行った諸国の民の間で汚したわたしの聖なる名を惜しんだ。」(21節)

分析

1節〜15節 イスラエルの山々への預言
16節〜21節 イスラエルの家の行いとわざに対する神のさばき
22節〜32節 新しい霊を授けて神の定めを守り行わせる
33節〜36節 神がイスラエルの家のすべての不義をきよめる日
37節〜38節 聖別され人を増やされ主を知る日

序論

イスラエルの民はバビロンに捕囚の民としてひかれて行ったのですが、その地にあっても良いおこないができずに神の聖なる名を汚します。しかし、神はその汚された聖なる名を惜しみイスラエルの民に手を差し伸べるのです(22節)。

1.願いを聞き入れる神

37節に「わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、次のことをしよう」とあります。神は生きておられます。それゆえに、主の宮で、または自宅で、また職場でも、どこでも神に祈りましょう。神は祈りに答えてくださるお方です。しかし、ただ聞かれるのではありません。民の心には偽りがあったからです(8章参照)。

2.回復に先立つきよめ

33節に「わたしが、あなたがたをすべての不義からきよめる日に、わたしは町々を人が住めるようにし、廃墟を建て直す。」とあります。わたくしどもの人生も経済的な祝福が心の問題を解決しないうちに与えられると危険です。神に向き直り、まず神に私共の心の内側を整えていただきましょう。

3.神の定めを行う民

偶像を捨てることができますか。神はあなたに偶像を捨てさせて、あなたは自分の過去の行いを恥じる、そのような日が来ると約束されています。罪に支配されて抜け出せないでいる日々を振り返って恥じることができるような日をもたらすと約束されています。それは「わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる」(27節)日におとずれます。それは、神が聖であられることを示されるときに実現します(23節)。エゼキエルの場合1章26節から2章2節によりますと、彼は神の御前にひれ伏し、「立ち上がれ」という御声を聞くのです。

結論

神によるならば私たちの心、その良心も造り変えられます。罪に慣れ親しんで神の光が見えなくなる時期があっても、神は回復の日を備えておられます。イスラエルの民がそのためにおこなったこと、それは神に願い求めることでした(37節)。神の名の聖は現わされます。汚されるまま、放っておかれることはありません。私たちは新しい心を与えられ(26節)エゼキエルのように神の御手に握られるのです。神の御声を求めてみませんか。神はご自身の聖なる名を惜しむゆえに、神殿で偶像礼拝をしていた弱い民をもいつくしんでくださるお方です。

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