「きよさを求める」(1ヨハネ1章9節) ( 8.12/2019 )
「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(9節)

神は光であって、神のうちには暗いところが少しもないと5節に記されています。また、やみの中と光の中があるけれども、もし、光の中を選び、歩むなら、私たちは神と互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。というのが神の約束です。
交わりとは何のことでしょうか。続く9節には、人間の側からは罪を言い表すことによって一切は決し、神の側からは、その罪を承認する者を赦しきよめてくださるというのが神との交わりです。

神というのはご先祖様のことではありません。聖書が証言している神は主イエス・キリストです。主イエス様がわたしのすべての罪をきよめてくださることを信じて求めるのが信仰生活です。神はそのような神を信じる者に多くの恵みを授け神様のために働かせてくださいます。第一ヨハネの手紙で命じられていることは互いに愛し合うことです。すなわち、他の人のために祈り働く人へと変えられていきたいと思うのです。神様は願いをかなえてくださいます。

ある少年は、(「喧嘩をしたくなったり、いじわるをしたくなる心があるだろう。そのとき、きみはどうする?」と聞かれ、「我慢する。でも、我慢できないときはあばれちゃうよ。しょうがないもんね。おじさんはどうするの?」と聞いたそうです。「そう、おじさんも、おこりたくなったり、にくらしくなることもあるけどね、そのときは、イエス様にお祈りするんだよ。するとね、だんだん心が、おちついてくるんだ。そして、心がうれしくなってくるんだよ。もう、おこったりしなくてもよくなるんだ」「へえー。イエスさまって、すごいんだね。ぼくもやってみようかな。だけどイエスさまってよくわからないや。おじさん、イエスさまって、どうしたらよくわかるの?もう前に死んだ人なんでしょ?」「そうだよ。二千年ほど前に、十字架につけれられて死んだおかたなんだ。しかしね。三日目に生きかえったんだよ。そして今も生きておられて、私たちのために、働いておられるんだよ。神さまの子なんだよ。聖書にはね、そのことがよく書いてあるよ。おじさんは、その聖書を毎日読んでいるよ。正治君も読んでみないか?」「おじさん、だって、むずかしいんでしょう?ぼくに読めるかなあ」「だいじょうぶだよ。うちの美和ちゃんも読んでいるよ」)という会話をきっかけにして主イエス様を信じました。

どうして、イエス様に私たちの心を造り変える力があるのでしょうか。聖書はこう説明しています。(「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。」(イザヤ53章11節)彼とはイエス様のことであり、彼を世に送られた父なる神のことです。そして今より後、彼を信じる人びとが、ふたたび神様のもとにかえり、神様に正しく従うことができるようになりました。それは、父なる神によってこの世に送られたイエス様が、人間ひとりひとりの罪の身代わりとなって十字架にかかり、死に至るまで、そのはたらきを行い通されたのを見て父なる神様が満足されたからです。イエス様はみなさんひとりひとりのために十字架にかかれられたのであります。イエスさまは神ですが人となってこの人間の世界に来てくださったのです。神みずからが低く低くなられたのです。それほどまでに神は人を愛しておられます。「神様。わたくしを神様の愛を伝えるもっと良い道具としてお使いください」)忠実にイエス様に従いましょう。命を捨ててくださった生き方にも。

(参考図書 荒木寛二著「信仰偉人伝 笹尾鉄三郎」教会新報社 106頁、109頁)

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