『悔い改めの福音』(マタイ3章1節〜17節) ( 8.25/2019 )
「『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』」(2節)

序.

「悔い改め」と聞くと耳をふさぎたくなるかもしれない。しかし、「悔い改めは、神の赦しと恵みを受けるための、唯一の、不可欠の条件」(G・F・モアー)。悔い改めは神よりの祝福を受け取る手のひら。今朝は悔い改めの福音について学びたい。

1.悔い改めた人々(1−6節)

自分を甘やかさないで厳しい現実を見つめるならば、聖書にははっきり、悔い改めないことは永遠の滅びだと記されている。神が来られる時、麦と殻は徹底的に分けられ、麦は倉(永遠の命)に、殻は消えない火(永遠の滅び)に入れられると書かれている。どんなに楽しい人生を送っても、人より少し良い人であっても、自分で真面目に生きていると思っていても、「人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)と聖書にある。「一度」というのは重たい言葉。人は脅しを言う時があるが聖書の言葉は予告。人は神の前に出る時が来る。その時、神の前に悔い改めた人と悔い改めなかった人がはっきりと分けられる。悔い改めとは、過去の過ちを悲しむことでなく、神に逆らっていた自己中心から神中心に変わる意志的な全人格的な態度の転換。
バプテスマのヨハネが、かつてのエリヤの様に烈火のごとく「悔い改めよ。御国が近づいた」と叫んだ時、人々は自分の罪を告白して神の前に悔い改めた。

2.悔い改めない人々 (7-12節)

ヨハネはパリサイ人とサドカイ人を責めた。彼らは、「聖書の教えを行うこと」、「礼拝の儀式を行うこと」を悔い改めの代わりにしようとした人々。今もその危険はある。しかし、「悔い改めよ」という聖書の言葉があり、「神へのいけにえは、砕かれた悔いた心」(詩編51:17)とある以上、行いや儀式は悔い改めの代わりにはならない。ダビデは姦淫の罪を神の前に認めて、罪を赦された。アダムとエバはすべてをご存じの神の前に、体を隠し自らも隠れた。神を恐れる関係。神との断絶。罪の告白は神との関係を回復するための第一歩。神は、恐れ隠れている者に「あなたはどこにいるのか」と、関係の回復を求められる。
人が自分の罪を告白し、神に悔い改めるなら、神は悔い改めた者の罪を忘れられる(詩編32:1、イザヤ43:25)。それがすべての人に与えられる祝福。

3.救いの完成への準備(13-17節)

主イエスはなぜ罪がないのに洗礼を受けられたのか?それは悔い改めたがらない私達の模範となるため。主イエスは神の子という王でありながら(詩編2:7)、神の御心を成し遂げるため世に送られた受難のしもべ(イザヤ42:1)というのが17節の意味。悔い改めはコインの裏面。救いの前段階。そこから十字架を見上げる信仰によって救われる。永遠の命に入れられる。主の十字架はこの洗礼からその準備が始まった。それは罪人の身代わりとして十字架にかかり、すべての罪を精算するためだった。
 それに従われる主イエスを、神は「わたしはこれを喜ぶ」と言われた。

おわりに. 主イエスにならって

主イエスは、悔い改めを必要とされなかったのにバプテスマを受けられた。
 神に逆らう私達も神の前に悔い改め、「わたしはこれを喜ぶ」との御声を受けた主イエスに倣い、神に従い、神に喜ばれる者とされよう。

(説教者 田代美雪牧師)

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