「二度は、ダメ」(ガラテヤ5章1節) ( 9.9/2019 ) |
「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(1節) 分析 1節〜12節 キリストによる自由 13節〜26節 御霊による生活 序論 「かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」(ローマ2章29節)神を信じるしるしは体につけるのではなく、心につけるのです。では、心が変えられるために必要なこととは、 1.十字架 「兄弟たち。もし私が今でも割礼を宣べ伝えているなら、どうして今なお迫害を受けることがありましょう。それなら、十字架のつまずきは取り除かれているはずです」(11節)。割礼に対抗するものが十字架だということです。割礼は自分の身につけるしるしですが、十字架は神の御子の前にひれ伏さなければなりません。主イエス様の十字架がわたくし共の傷を癒します。「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されましたキリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(Tペテロ 2章21節〜24節)主イエス様が私共の罪を負って下さったからです。 2.愛 わたくしが娘を抱っこしますと娘の足は宙に浮きます。そしてわたくしの行くところに娘の体も移動します。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5章24節)もし、罪から救われたいと願われるのでしたら、罪の問題をキリストにお任せになってみませんか。「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」(6節) キリストの御霊はあなたの心に愛を与えてくださいます。そして主にあって信じる信仰も与えてくださいます。「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。」(ローマ14章4節)真の愛はキリストにあるのではないでしょうか。 3.割礼でなく十字架 私共を罪(淫行、汚れ、偶像礼拝、まじない、ねたみ、争い、そねみ他)から救うことができるのは割礼ではなく主イエス様の十字架です。罪のために死んでくださったお方を信じるとき、御霊により導かれる生活が始まります。それが愛の生活です。 結論 「またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(1節)すなわち、ウィンドウショッピングのように、様子を見るだけ(罪の奴隷は続ける)、というのはダメだというのです。今、キリストの十字架に、罪の解決を任せてみませんか。そして、「そねみ、虚栄、肉の欲から救って下さい」と主イエス様に祈ろうではありませんか。ドワイト・ライマン・ライサー・ムーデーは1回目の受洗の審議会で落ちて傲慢を反省し、ジョージ・ミューラーに「ムーデー、肝心なのは人が神のために何ができるかということではない。神が人を用いて何をなさるかということではないですか」と言われて、信仰生活を正しました。(1ヨハネ5章14節、ローマ6章6節参照)どんなに弱くおろかでも、十字架にかかって愛してくださる主イエス様から、二度と、離れてはいけないのです。 |
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