『悲しむ者は幸い』(マタイ5章1節〜16節) ( 10.21/2019 )
「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。」(4節)

序.マタイ5〜7章は山上の説教。神の口が語る福音の神髄。なぜ「山上」か?天の教えだから。神の支配に入る時、私たちにどのようなことが起こるのかを伝える。今朝は、5章前半の八福の教えの中の「悲しむ者は幸い」という一句から教えられたい。

1.苦難による悲しみ

「幸いなるかな!」という始まりは詩編第一編に似ている。しかし、続く内容は全く異なって見える。「神以外頼るべきものがまったくない貧しさ」、「号泣する悲しみ」、「踏みつけられる卑しさ」、「息絶えるほどの飢え渇き」。それが幸いな者。「???」。疑問ばかり浮かぶ逆説的な内容に見える。
悲しみに打ちひしがれている方を前にして、「悲しむ者は幸い」などとは到底言えない。問題はこの言葉をだれが語ったかということにある。悲しみは不幸。「この悲しみがなぜ私に?」という疑問がさらに悲しみを深める。なぜ悲しむ者が幸いか?それは悲しみは人を神に近づけるから。「危険なのは、あらゆる苦しみを追い払う、あの陽気な軽薄さ・・・それは苦痛と共に神の慰めをも追い払ってしまう」。「彼女は声をあげて泣いた。・・・『ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神が・・・聞かれたから』」(創世記21:16、17)。悲しみの時、神の前に涙を流す人は幸い。「イエスは涙を流された」(ヨハネ11:35)。主は涙を受け入れてくださる神。

2.悲しみの転換

人は悲しむ中に罪を犯す。わがままになる。自己憐憫・自己中心。慰められることが当然と思う。「キリストは自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いとささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました」(ヘブル5:7)。イエスこそ悲しみの人。私たちが神の前に涙していく時、キリストがすべての苦しみを先に踏まれたことに気づく。そして、自分の中の不信仰・自己中心に気づき、自分の罪を悲しんで悔い改める。
「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」(Uコリント7:10)。神の前に涙していく時、悲しみが純化されていく。涙が祈りに変わる。賛美に変わる(詩編56編)。

3.他の人のために悲しむ人に

主の御苦しみ、涙を知るようになると、主がだれのために涙されているかに気づく。他の人々のために。そうすると、今まで自分のためにしか流せなかった悲しみに新しい質の悲しみが加えられるようになる。他の人の悲しみを共に悲しめる人に。高い所から低い所に流してあげるような涙ではない。自分の愛の貧しさを嘆く悲しみと同じ種類の涙。主の涙のゆえに。私のような者も他者のために涙を流しうるように変えられる。ひとのために悲しむことができる人は幸い。

おわりに. あえて悲しみに立つ

あの激しい涙と叫びの中に立った主の愛を知り、その愛に生かされる者は、悲しむ人の悲しみに、少しでもあずかろうとするようになる。人のために祈るようになる。悲しみの中に閉じこもるのでなく、悲しみに鈍感になるのでなく、主の涙を共に流させていただく者にならせていただきたい。

(説教者;田代美雪牧師)

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