『いっぴきの迷い子の羊』(ルカ15章1節〜7節) ( 11.25/2019 )
「いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。」(4節)

序. 本日はこども祝福式。父なる神が迷いやすい私達ひとりひとりをいかに愛されているか、迷子の羊の譬えから学びたい。

1.たいせつな「ひとり」

有名な主イエスの譬え話し。ある羊飼いの羊の100匹のうちの一匹がいなくなったという話。迷い子になるくらいなので恐らくこどもの羊だったろう。
ヨハネの福音書(10:3)には「名で呼んで」とある。羊飼いにとって99対1という数字が大切なのではない。何匹かではなく誰がいなくなったかが問題。どの一匹もかけがえのない存在。だれがいなくなっても困る。惜しむ。それは「自分の」羊だから。

 2.自分からは帰れない「ひつじ」

ルカ15章には失われた譬えが3つある。しかし、羊の譬えに特徴的なのは、この羊が帰りたいのに帰る方法がわからない、自分から帰ることができない、という点。実は、これが聖書が語る人間の姿。イザヤ書には(53:6)、「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの自分かってな道に向かって行った」とある。罪(ハマルティア)の意味は、不道徳ではない。「的はずれ」。どんなに一生懸命歩んでいるつもりでも、方向が違っているならそれは的はずれ。私達は自分で正しくは歩めない。向かう方向が定まっていないなら。アウグスティヌスは言った。「主よ、あなたが我々をお造りになりました。ゆえに我々の心はあなたのうちに憩うまで休まらない」、と。
自分がどこにいるかわからない、父なる神への帰り方がわからない迷い子の私達の所に、「わたしが道である」と言われる主イエスが来られた。それがクリスマス。私達が神に帰る道の案内人となり、私達が聖なる神の前に立つために、十字架上に罰せられ、罪をきよめる橋渡しとなるために(イザヤ53:6後半)。
 「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のために命を捨てます。」(ヨハネ10:11)

3.疲れきったひつじを「背負われる」神

 「見つけたら、大喜びでその羊をかついで」とある。迷い子のひつじは、
もう一歩も自分では歩けなかった。けがをして傷ついていたかもしれない。疲れきって眠っていたかもしれない。そのひつじを、とがめず優しくふところに抱き、持ち運んでくださる羊飼い。神の前に気負う必要はない。弱いまま、疲れたまま、おさなごのように抱っこされて良い。

おわりに. 主はわたしの羊飼い(詩編23:1)

 「あなたはわたしの羊だ、あなたを失いたくない」と言ってくださる神様を「あなたはわたしの羊飼いです。あなたのそばに一生憩わせてください」、というのを父なる神は待っておられる。父なる神に帰り、神の中に憩う者とならせていただこう。こひつじのように。

(説教者;田代美雪牧師)

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