「あふれる生活」(ヨハネ7章38節) ( 12.2/2019 ) |
「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7章38節) 神は聖なるお方です。そして、私共を罪から救うことのできるお方です。罪とは、主イエス様を拒み、十字架につけて殺し、無視して生活することです。日本人の大半の方は、主イエス様を知らず、彼のメッセージを聞いたことがないので、当然彼を拒み彼と関係のない生活をしておられます。そのような社会にあって、クリスチャンというのは罪過の責任に代えて和解の福音を委ねられた存在です。ですから、主イエス様とはどんなお方なのか、社会に対して明確に語り続ける存在でなければなりません。すなわち、クリスチャンには主イエス様を拒むことを神が罪とされることについて説明する責任があります。 当時教会が最初に生まれた時に主イエス様の弟子であるペテロは公の席で群衆に向かって主イエス様について説明しました。それは、「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。」(使徒の働き2章23節)というもので、この「この方」とは主イエス・キリストのことです。ここで彼は主イエス様を十字架につけて殺したことこそ罪なのだと教えています。 さて、私共は違う時代に違う世界で生きている者たちなので、直接彼を拒み(主イエス様を十字架につけて殺す)という決断をしたわけではありません。しかし、すべての判断を行う時に、聖書のことばを聞いたことはあるけれども、聞き従わなかったり、彼の語ったことも全く聞いたことがなく、自分の意思で判断し、結果として主イエス様の意思を無視して生きていることが罪になるのです。(そんな無茶な)と思われるかもしれませんが、神は私共に良心を与えておられ、主イエス様に逆らう時、良心が私共自身を訴えるのです。そして、聖書を開いて読む時に、神はご自身の御旨を教えてくださるのです。 では、罪から救われた生活とはどんな生活なのでしょうか。それは、主イエス様を無視し、彼の思いを拒絶し、自分勝手に歩んできた歩みを悔い改め、主イエス様に従う生活を始めることを救われると言います。たとえ、クリスチャンでも自我のおもむくままに生き、主イエス様と関係のない生活をしているなら救われていないのです。しかし、もし、主イエス様を心の中にお迎えし、彼にお従いするなら、おのずと、自ら(自我)は十字架につけられて死ぬのです。 どうして、当時の人々は主イエス様を拒んだことを悔い改め新しい人生を始めることができたのでしょうか。それは、主イエス様がよみがえられたことを知ったからでした。私共も、死んでいるお方を主人として信じ、心にお迎えしましょうというのではありません。死からよみがえり今も生きておられる主イエス様を、自我の代わりに、心の王座にお迎えし、いま生きておられる主イエス様にお仕えする新しい人生を始めましょうというお誘いをしているのです。 もうすこし、主イエス様とはどんなお方か説明させていただきますと、ヨハネ第一の手紙の1章2節に「このいのちが現われ」とあり、これは過去のことで、3章2節には「キリストが現われたなら」これは未来のこと、そして、現在は2章1節に「御父の前で弁護する方がいます」これは現在のことです。しかし、この現在の主イエス様は父なる神の前にでておられるだけでなく、私共の心の内側に語りかけてくださるというのが本日のメッセージです。モーセは柴の中から語られる声「モーセ、モーセ」を聞き、新しい人生に導かれましたし、パウロも「いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2章20節)と御子に出会っています。スポルジョンは16歳の1月13日メッセージの中で、「イエス・キリストを見よ、見よ、見よ。」(イザヤ45章22節)と迫られて主イエス様と出会っています。私共は、「十字架につけて殺しました。…しかし、神は…よみがえらせました」(使徒の働き2章23節、24節)でもって、自分が主イエス様を拒み十字架につけ葬ってきたけれども、これからはこのお方を主とすることを祈り、公にも告白しましょう。 あなたも罪からの解放と回復を求めておられるのではありませんか。私共にどんなに大きな欠けがあっても主イエス様の救いの力は外にあふれ流れ出ます。私共の名は、主イエス様を十字架につけた○○、主イエス様の十字架の血潮によってきよめられた罪深い男、なのですから。 |
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