「ただ御旨をなさせたまえ」(1ヨハネ3章6節) ( 12.9/2019 )
「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。」(6節)

1.キリストとの出会い

マタイ27章46節、新約聖書の61頁(新改訳第3版)に「三時ごろ、イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と叫ばれた。これは、『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」とあります。罪を犯さず生きてこられたキリストが罪人として神に見捨てられ、罪ばかり犯してきた人間が罪を一度も犯さず生きてきたものとして受け入れられるというキリストによる救いがここに成ったのです(へブル2章14節)。

2.キリストを信じる生活

キリストが十字架にかかって死んでくださったということが、私どもの生涯に何を及ぼしたのかということをキリスト者は大切にしているのですが、キリストを救い主として信じている者でもその方の生活の中でキリストが生きておられないならば、時折思い出した時に感謝する程度の交流になるのではないかと思います。
けれども、キリストを生きておられる存在としてとらえ、いつも祈りをもって彼と交流する時に、私どもの生活が本で読む世界の中の宗教から実生活の中のキリストに変わるのです。すなわち、どんなに愛してくださっているキリストがおられたとしても、そのお方との実際の交流がないならば、非常に貧しい乾ききった宗教生活になるのです。
キリストは黙って私共の祈りを聞いてくださっていて、忠実に神のみ前にとりなしてくださっています。このお方は私共を信頼してくださるのです。ですから、交流があるからこそ失敗を犯すとき申し訳ないという感情がめばえるのです。もし信仰の対象が生きておられない感情のない物体ならば元から交流は成り立たないのです。

3.ただ御旨をなさせたまえ

16歳の時、主イエス様による救いを信じたけれども、気づいたら喜びを失ってしまった青年がいました。彼は自分で学べば喜びを取り戻せるだろうと神学校に入学し卒業して牧師となりました。しかし、講壇では立派なことを語ることができるのですが実生活はレベルの低いものであったそうです。そのことに悩んで、 牧師を辞め商売を始めたのですが、火事に遭い、悔い改めて牧師を再開したそうです。けれども、やっぱり、心に火が入らないからダメで牧師を続けることができなかったそうです。しかし、もうお金が無くて、商売もできないので銀行員になりました。しかし、その中でも、人間関係に苦しみやりきれなくなり馬で郊外に出かけたそうです。その際、木に馬をつないで(神様、なんとかしてください)と、ただひれ伏して祈っていると、神様が、心の中に(よし、今日からお前はお前の心ではなく、わたしの御旨ばかり行うようにしてやろう)と言われたそうです。すると、彼は困ってしまって、(ちょっと待ってください神様、そういうことをしてもらいたいのではないのです。百の内99までは御旨を行なっても、一つくらいは私の旨を行わせてください。百が百全部神様の御旨ばかりで私の旨はなされない、そういうことをしてもらいに来たのではありません)と答えたそうです。
そして、馬に向かって立ち上がって歩み出そうとした時、もう一足踏み出せば神様との縁が永遠に切れてしまうような気がして進めないで棒立ちになっていると、神様の方がへりくだってくださってもう一度声をかけてくださったそうです。(どうだ、そういう心になりたくないか。もし、お前がそういう心になりたければ、お前にはできないかもしれないが、わたしがそういう心にしてやろうか)と言われたそうです。イヤとは言えず、そんな心になれるものなら、神様やってもらいましょうか、と言葉にはならない、ささやくような声で『そうしてもらいましょうか。』と言った。この時以来、彼は全く解放されて重荷がなくなったのです。喜びが湧いてきて、足取り軽く帰って、あちこちで恵みを証しするのが忙しくなって銀行もやめてしまって、アライアンス教団の責任者になって日本に証に来られたそうです。ただ御旨をなさせたまえと明け渡し、手放した時から、聖霊の恵みに与ったそうです。最後の一息まで、どうぞただあなたの御旨をのみなさせてくださいと祈っているとのことでした。
わが旨をなさず、御旨のままになさせたまえと神様に自分をお任せしましょう。

(参考図書 小島伊助著『小島伊助全集1、 説教1』30頁〜32頁 いのちのことば社)

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