「主イエス様の誕生」(ルカ2章7節) ( 12.23/2019 )
「男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」(7節)

使徒パウロはへブル人で、イスラエル人で、アブラハムの子孫でしたがキリストのしもべになりました(2コリント11章22節、23節)。彼にとっての救いの概念は、労苦、入獄、むち打ち、死に直面する出来事等でした。日本人の救いの概念とはちょっと違っているでしょうか。金持ちになりたい方、そのことを救いと受け止める方はクリスチャンにはならないほうが良いということです。
しかし、キリスト教は事実に立脚した宗教であり、漫画の世界ではありません。

1.主イエス様の出生(ルカ2章7節)

主イエス様は皇帝アウグストの時代にベツレヘムでお生まれになりました。

2. 主イエス様はきよめぬし(へブル1章2節、3節)

「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」

3.主イエス様は勝利者(へブル2章14節、15節)

「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」

まとめ
 
罪はあきらめるべきものではなく、主イエス様によって救い出していただくものです。主イエス様は私共の罪を負って十字架にかかり、贖いをなしてくださいました。ですから、私たちが主イエス様を信じて悔い改め、洗礼を受けた後は、悪魔の奴隷になる必要はありません。主イエス様のしもべになれるからです。
ある先生は非常に自我に悩んで自分が嫌になり、死ぬに死ねず、山に入り、しかし、その時解決が与えられたそうです。火が降ってきたのでも異象を見たのでもなく、聖書の言葉が与えられたそうです。それは、ガラテヤ2章20節「私はキリストとともに十字架につけられました。」だったそうです。(あっ、なんだ、そうか、十字架に私はつけられていたのか。そうだこの私、この自我、この己、このいやなやつ)と、ここばかり見ていたが、何ぞ計らん、ああ十字架の上にイエス様はつけておってくださったのだ。「お前の悩みのために私はお前のために十字架にかかり、お前を共に十字架につけたよ。信じなさい。ここについているよ。」と示されたそうです。原文では、キリストと共に我は磔殺された、もはや私ではない。になっているそうです。それから、彼は(キリスト様が私の内に一切をやってくださるのだ)という信仰を受けて、平安と喜びの別人になって帰ってきたそうです。
あなたには真の平安と喜びはありますか。自分をどこに捨てましょうか。神様への降伏を信仰と言います。聖霊が教えてくださるのです。「キリスト 死人 の 中 より 甦 へり て 復 死 に 給 はず、 死 も また 彼 に 主 と なら ぬ を 我ら 知れ ば なり。…斯く の ごとく 汝 ら も 己 を 罪 に つき ては 死に たる もの、 神 に つき ては、 キリスト・イエス に 在り て 活き たる 者 と 思ふ べし。… 反 つて 死人 の 中 より 活き 返り たる 者 の ごとく 己 を 神 に ささげ、 その 肢 體 を 義 の 器 として 神 に 献 げ よ。汝 ら は 律法 の 下 に あら ず し て 恩 惠 の 下 に あれ ば、」(ローマ6章9節、11節、13節、14節)
(参考図書 小島伊助著『小島伊助全集1、 説教1』47頁、48頁 いのちのことば社・『文語訳 聖書』. sakisyuppan. Kindle 版.)

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