「新年への希望」(ローマ6章19節) ( 12.31/2019 )
「聖潔に進みなさい。」(19節)

使徒パウロは自らを罪人のかしらと呼びました(1テモテ1章15節)。このことを思います時に、主イエス様の誕生、すなわちそのめぐみ(ヨハネ1章17節)とはマイナスいちだと思うのです。なぜなら、パウロは他の個所で自らのことを律法の点ではおちどのない者と呼んでいるからです(ピリピ3章6節)。
パウロ先生とは逆ですが、どんなに愚かでも、マイナスいちを掛けてくださる主イエス様を信じるなら立ち上がれますし、今完全でなくても「義の冠」(2テモテ4章8節)に向かって進みだせると思うのです。

1.二度目の死はない(ローマ6章9節)

「キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく」(9節)ここにキリストは十字架の上で死なれたので、もはや彼には死ぬことがないということが語られています。続く11節には、私共について「あなたがたも自分は罪に対しては死んだ者であり」と思いなさいと命じられています。すなわち、一度死んだ私共もまた死ぬことはないと言っています。死の力は近づいてきますが、…死ぬことはないのです。

2.恵みの下にあるという律法の下にはいない新しさ(ローマ6章14節)

「あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。」あと三日で新年を迎えますが、このみことばにも過去と現在の時の流れがあります。すなわち、過去においては律法のもとに自らを罪人として断罪した生活があり、現在は主イエス様のもとにあって義とされている生活があるのです。(めぐみはマイナスをプラスにします)
イエス様を知らない時代には帰れないはずなのです。けれども、罪を繰り返し落ち込む現実があるということはどういうことなのでしょうか。

3.進み出しましょう(ローマ6章19節)

私共も、聖潔に向かって(ローマ6章19節)歩んでいます。すなわち、「兄弟たちよ。わたしはすでに捕らえたとは思っていない。」(ピリピ3章13節)私共はまだ完全ではないということです。けれども、進めるのです。どんな力で進むのでしょうか。現実には弱い自分があります。しかし、今は律法のしたではなく、めぐみのしたにいることを認めるから進み出せるのです。

聖潔とは何のことなのでしょうか。人が心の中で他人を悪く思うこと、うそをつきたくなること、憎らしく思うこと、これを罪といいます。野の花を造り、私共を造られた神様は私共の心の中もすべてご存じで、これらのものを放っておく限り、神がわからず私共は生きることの意味も死ぬことの意味も分からないのです。ただ裁きを待つ生涯にとどまるのです。けれども、主イエス様は神であられるのに私共を救うために人となって地上に来てくださり、私共のために罪の罰を受けてくださり、死んでよみがえってくださいました。この主イエス様を信じ、罪を悔い改めるなら、イエス様が復活されたように、私たちもこの地上で死んだとしても神様の御国で楽しく生きていけるのです。(悔い改めとは死から命に移される時であり、神との出会いです。放蕩娘や息子が父のもとに帰るときです。父のもとは、きっと忙しいですよ)
罪の奴隷はやめて神の奴隷になりなさいと聖書は勧めています。今日から罪を悔い改めて神に従い始めてみようではありませんか。(いや、でも、自分の生き方を変え、赦し愛するなんて無理です。無理を許されているのも神様ではないのですか)と質問してくださるでしょうか。けれども、聖書を読みますと、「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」(コロサイ3章3節)キリストとひとつにされているのです。(「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6章23節)「あなたの光のうちに光を見るからです、」(詩篇36篇9節)とあります。)キリストを現してくださいと祈らなければ、先に進めないのです。

TOP