『信仰の完成者イエスを目ざして』(ヘブル12章1節〜3節) ( 1.20/2020 )
「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。」(2節 口語訳)

序.新年が始まった。一日一日をゴールを見定めた歩みをしたい。私達の信仰生涯にはゴール(目当て)がある。それを見失うと歩みに力を失い、信仰生活が低迷していく。今朝はヘブル書より、ゴールを見据え、力強い信仰生涯を歩む秘訣を学びたい。

1.霊的スランプから脱出する手順。その一

3節を見るとヘブル書が宛てられた信者達は疲れていた様子。霊的スランプ。ヘブル書やパウロ書簡等では度々信仰者はアスリートに例えられている(Tコリント9:24-27)。信仰者はぼーっと歩むということはあり得ない。どこかを目ざして苦闘しつつ歩んでいる。信仰の先達、OBから渡されたバトンを次に繋げる使命、証人としての使命を負っている。また信仰を引き下ろそう、鈍らせようとするサタンの力に抵抗して苦闘している。 しかし、どんな強靭なアスリートも信仰者も時に疲れる時がある。前に進めない時が来る。エリヤでさえも、「もう十分です!」と悲鳴をあげた。どうしたら、そのスランプから脱することができるのか。まずその回復の第一歩は、過去の恵みを思い出すこと。過去にも危機があった。その時に私と共にあった神の恵みを思い返すこと。また、どこから神の恵みを受けていた生活から外れたのか、を丁寧に点検すること。

2.その二。健全な信仰に進む秘訣―余分なものを落とす「聖別」

「いっさいの重荷とまとわりつく罪を捨てて」。信仰の人アブラハムの出発は決別から始まった。彼の歩みの足かせとなっていた父の「妥協」は途絶えた。罪でなくても信仰を鈍らせるもの―例えば、「妥協」。「極端になってはいけない。ほどほどにしなさい。」そういう姿勢であった父テラは約束の地を受けることなく死んだ。アブラハムは安定した生活、頼れる人々を捨てても、一切の危険や目に見えない約束という心配を押しのけても、偶像社会からの決別を選び、出立した。ただ神の約束だけが彼の行動の言動力だった。私達は多くのものに頼り過ぎる。いつしか、神にのみ頼っていた信仰が鈍らされていく。また、神に従っていくことのリスクを計算し過ぎる。その足かせが足を鈍らせ後退させる。
信仰は聖別から始まる。「『アブラムよ。恐れるな。…わたしはあなたの大いなる報いである』。」(創世記15:1)。神ご自身を持つことはすべてを持つこと。

3.その三。ゴールを見定める―ゴールで迎えてくださるイエスを望み見る

私達は一文無しではない。神が共におられる一文無し。この世では寄留者。
この世に望みを持つから目先のことに一喜一憂する。近視眼的。目をはるかか
なたで待っておられる主イエスに向ける時、主のように歩むことができる。
「ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに、十字架を忍び」。栄冠を用意してくださっているから主と共に苦闘し、主の証人となることを恥じることがない。信仰者とは主を愛する主の証し人。

おわりに. 栄冠を受けるようにチームで走ろう(Uテモテ4:6-8)

主は私達の帰りを待っておられる。私達はどんな携え物を持って御前に出られるだろうか?証人とは殉教者。その死によってというより、死に至るまでの生き様を通して主を証しする人。先輩に囲まれて競技場に入って来ている。
主が迎え入れてくださる日まで主の証人として生きよう。選手には応援スタックがいる。互いに励まし合いつつ(ヘブル10:22-25)、走り終えよう。

(説教者;田代美雪牧師)

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