「自分により頼めない方へ」(ヨシュア2章11節〜21節) ( 1.27/2020 )
「ラハブは言った。『おことばどおりにいたしましょう。』」(21節)

ヨシュア記とは、イスラエル民族がエジプトから脱出してヨルダン川を渡り、カナンの地を占領していく過程が記されている書ですが、現代に読み替えるなら神様が罪を滅ぼしていかれる様子を見ることができます。本日出てきます女性の職業は遊女です。自分でもきよい神様とは縁がないとあきらめていた方だったかもしれません。しかし、聖書を読みますと「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19章10節)、神様は罪人を救うためにイエス様をこの地上に送られたのです。
彼女は罪から救われる方法を知らなかったでしょう。しかし救われる方法はあったのです。神様は罪に苦しむ人をきらってはおられないのです。
では、彼女の特徴は、

1.神の御業を知っていた

9節「主がこの地をあなたがたに与えておられること」出エジプトと葦の海の渡行、エモリ人の二人の王にしたことを知っていて自分も殺されると感じていました。
(神が罪を嫌われること、罪の解決を求めなければならないこと)を、もしあなたが今感じておられるならば、この救いを得た女性と同じところに立っておられるということです。

2.生きることを、あきらめず求めた

彼女は生きることを、そして彼女だけでなく彼女の家族も生かしたいと思いました。そして、そのことを斥候に訴えたのです(13節)。

3.彼女は斥候の約束を信じた

「私たちをつり降ろした窓に、この赤いひもを結びつけておかなければならない。また、あなたの父と母、兄弟、また、あなたの父の家族を全部、あなたの家に集めておかなければならない。」(18節)以上。

彼女は神の御業を知り、生きることをあきらめずに求め、斥候の約束を信じました。私共とどこが違うのでしょうか。
彼女は自分のきよさというよりどころを既に失っていました。他の聖書の箇所にも「パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ18章11節〜14節)とあります。
この遊女や取税人同様、神様はあなたを放っておかれません。斥候ではなく、神様はご自身の御子イエス様を遣わしてくださいました。この遊女が斥候との約束を信じぬいたように、自分の行いへの信仰へ戻ってはいけないのです。主イエス様だけを信じぬかなければなりません。心のうちに巣くう罪(神様の約束を信じないこと、そして逆らうこと)は神様が解決してくださいます。神様は義人のためにではなく、罪人のために救い主を送ってくださっているのです。

罪だらけ、ドロドロです。という方、今日、主イエス様を信じてください。あなたのきよさ、ではなく、主イエス様が救ってくださいます(ヨシュア6章17節、25節、へブル11章31節)。約束のしるし(神からのメッセージ)は御子の血潮です。しっかり、生活の中に結びましょう。

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