「味方ですか」(ヨシュア5章13節) ( 2.23/2020 )
「さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。『あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。』」。(13節)

ヨルダン川を渡るという奇跡を体験したイスラエルの人々は、そのままエリコを攻めに行きませんでした。3つの準備が必要でした。

1.過去について

割礼は罪深い肉に属するものを脱ぐシンボルです。「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」(ローマ8章13節)「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。」(コロサイ2章11節、12節)神は肉に勝利を与えることはできないのです。
そして割礼は神に全心を献げることを意味します。「あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない。」(申命記10章16節)、「ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。さもないと、あなたがたの悪い行いのため、わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者もいないだろう。」(エレミヤ4章4節)集団のひとりだから大丈夫なのではなく、個人的な割礼(従いとおすこと)が必要でした(ヨシュア5章6節、民数記14章20節〜24節)。

2.現在について

彼らは過ぎ越しの祭り(神がエジプトの奴隷から解放してくださったことを思い出し)、翌日その地の産物を食べました。それ以降マナが降ることはやみました。神様は奇跡を浪費されません。私たちはできることをしないで奇跡を期待してはいけないのです。

3. 将来について

ヨシュアは抜身の剣を握った武将に出会います。そして歩み寄って尋ねるのです。「あなたは味方ですか。それとも敵ですか。」と。抜き身の剣を見ても逃げないで歩み寄るのです。抜き身の剣とは、みことば(聖書のことば)です。教会に来会される方の中で、「竹光ではなく、真剣です。」という意味のことを伝えると遠ざかって行かれる方がおられます。遠ざからないでヨシュアのように神の御前にひれ伏しましょう。

ひれ伏すヨシュアに対して主の軍の将が命じたのは、履物を脱ぐことでした。礼拝したという意味だと思います。ある先生は、靴を脱ぐとは奴隷の姿だと教えてくれています。問題に直面させられるとき、神に降伏して礼拝する者となる道があるのです。神はエリコよりも前にヨシュアを攻め落としたのです。私たちはどうでしょうか。主の軍に入っているでしょうか。
「パパ、お金持ちって天国に入れないって知ってる。」と聞かれ、「知ってるよ」(マタイ19章23節参照)と答えました。「じゃあ、○○今どうしとうと。」と聞かれ、抜き身の剣とはみことばのことだと知りました。

(参考図書;横田武幸著『みことばとともに』日本イエス・キリスト教団福岡教会)

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