「再建しない」(ヨシュア6章26節) ( 3.2/2020 )
「再建を企てる者は主の前にのろわれよ」。(26節)

ヨシュア記6章はエリコ陥落について記されているのですが、「この町エリコの再建を企てる者は主の前にのろわれよ。」(26節)とありますが、地図上にはエリコの町は存在します。実際行ったことはないのですがそこに生活する方々が2万人以上おられるそうです。ヨシュアが呪われよと誓った意味を考えてみます。

1.神による救い

聖書の巻末にヨハネの黙示録があり、その21章には「勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、みだらなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」(ヨハネの黙示録21章7節、6節)とありますので、神による救いとは、この第二の死に至る生活からの救いです。とすると、ヨシュアが再建を禁じた町とは実在するエリコというよりも第二の死に至る生活のことです。すなわち、神は城壁と思えるどうにもならない罪の問題から救うことができるお方なのですが、神の救いに与ったのち、再び堕落する危険があるということです。

2.神による救いの方法

エリコの町の陥落は7日間で決着がついたということです。一週間です。猛烈な勉強会をしたというのではありません。六日間は一日一回町の周りをまわり、七日目には七回回ったというそれだけのことで城壁が崩れ落ちたというのです。ただ、彼らは神の命じられた通りに従ったのです。第二の死から救われたくない人は当然救われないでしょうし、罪を愛する人も救われないでしょう。ただ、神が憎まれることをわたくしも憎みます。生活を改めますという人を神は救ってくださるのです。

3.どうやって生活を改めるのかについて

聖書には牧師でも神に逆らった人が登場します。それはヨナです。彼はニネベに行けと命じられたのですが、自国の敵である国での宣教を拒み逃亡しました。バカなやつだと多くの方は感じるでしょう。しかし、神が神を見たことのない日本の私共のためにも聖書を通して、神がイエス・キリストとして地上に来てくださり、神を見せてくださった。私共の罪のために血を流して悪魔の手から買い戻してくださったと信じるだけで悪魔の縄目を解いてくださるのに、多くの方は信じることを断るのです。(信じているけれども解けないというのは神も悪魔も信じていない人です。救いは神による奇跡です。悪魔はイエス様にしか倒せません。)ヨナが拒んだのは神の敵国への愛です。しかし、私共が拒みやすいのは自分自身への神の愛です。もっと愚かではないでしょうか。しかし、悲しいことに生まれ持って愚かであり罪を愛してしまうのです。すなわち、愛の神を否定し、自分を神にしようとしてしまうのです。命をもっていないにもかかわらず。はじめであり終わりであるお方にも逆らってしまうのです。しかし、エリコの町のためには角笛の音が響き渡ります。これが、神の方法でした。一週間一日一回、七日目は七回。私共への神の奇跡の方法は何なのでしょうか。毎日聖書を読むことから始めましょう。いのちのことば社の中型聖書は6000円くらいです。まず、手元に準備してください。聖書通読計画を立てて毎日実行しましょう。そして、神に栄光をお返しする日曜礼拝に出席しましょう。

救いは神による奇跡です。それは、必ず起こります。城壁さえ一瞬で崩すお方が神です。ラハブは神の側に逃げ出しました。あなたはどうされますか。再建に至る病の根は、弟が帰ってきたのに喜べなかった兄の心に表れていると思います(ルカ15章28節)。兄は弟の死よりも自分の成功に夢中になっていたのです。もし、兄と同じだったと気づかれたのなら、城壁と死の現実に、立ち向かいましょう。

TOP