「神か金の延べ棒か」(ヨシュア7章21節) ( 3.8/2020 )
「私は、分捕り物の中に、シヌアルの美しい外套一枚と、銀二百シェケルと、目方五十シェケルの金の延べ棒一本があるのを見て、欲しくなり、それらを取りました。それらは今、私の天幕の中の地に隠してあり、銀はその下にあります。」(21節)

ヨシュア記7章はアカンという人物が金か神かで、金を選択してしまい、36人もの死者を出してしまい、彼自身も何の楽しみも得ないまま息子や娘と共に殺されてしまうという部分です。

1.神

神はアカンが聖絶の物のことで主を裏切ったことを怒られました。アカンが盗んだものはいずれも高価なものだったのですが、金の延べ棒は現在の日本の価格ですと355万円の価値のものでした。あなたなら、神と355万円どちらを選ばれますか。

2.聖絶

アカンの告白によりますと「重さ50シェケルの金の延べ棒1本があるのを見て欲しくなり」(21節)とあります。神への信仰を許さない力が世に働いているということです。しかし、神様は6章19節に銀や金は主の宝物蔵に入れるように命じておられました。すなわち、アカンのための生活を保証するお方は神でした。ところがアカンは神への畏れを失ってしまっていました。神でなく金を選び、聖絶される側についてしまったのです。

3.神への信頼

キリスト教は神がおられるということを宣べ伝えている宗教です。ルカ21章18節には、「髪の毛一本」という言葉が出てきます。神は私共の髪の毛一本までご存じのお方なのです。ところが、アカンは失敗してしまっているのです。イエス様と行動を共にした弟子たちですら、主イエス様が嵐を叱って凪にされたとき、怖がったというのです(マルコ4章40節)。神がおられることを信じるには神の御業を待たなければならないのです。

スポルジョンという牧師はこう説教しています。「新生は救いの基礎である。故に私たちは、自分が本当に生まれ変わっているかどうかを深く吟味しなければならぬ。生まれ変わっていると思っていても、実際そうでない者があるからである。クリスチャンという名前がついていても、真のクリスチャンであるかどうかわからないことに注意せよ。キリスト教国に生まれたことや、口でキリスト教の信仰を告白しているだけでは何にもならない。聖霊の力によって生まれ変わることが必要である。生まれ変わるということは、人の言葉で言い尽くせない奥義である。『風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかは知らない。霊から生まれる者もみな、それと同じである。』しかしながらその変化は感じられ、知ることができる。すなわち聖い行いによって知られ、祝福に満ちた経験によって感じられるのである。
この大いなるわざは超自然的なものである。それは人が自分の力で行なうものではない。新しい原則が注ぎ込まれ、それが心に働き、魂を新たにし、全人格を変えてしまうのである。私の名前が変わるのではなく、性質が新しくなるのである。私は以前の私ではなく、キリスト・イエスにある新しい人となる。
死体を洗い衣服を着せることと、それを生き返らせることとは全く異なったことである。前者は人のなし得ることである。しかし後者は神のみがなし得る。もし生まれ変わっているならば、あなたは次のように言うであろう。『おお主イエスよ、永遠の父よ、あなたの霊が、新しくて聖い、霊的ないのちを吹き込まれなかったならば、私は今日まで『罪過と罪とによって死んでいた者』でした。私の新しいいのちは、すべてあなたから得たものです』と。『私のいのちはキリストとともに神のうちに隠されている。』『生きているのは、もはやわたしではない。キリストがわたしのうちに生きておられるのである。』主よ、どうか私たちがこの大切な点において誤ることがありませんように。なぜなら、生まれ変わっていないことは救われていないことであり、罪ゆるされていないことであり、神なく、望みなきことであるから。」※

あなたは355万円に勝てますか。あなたにとって神は生きておられますか。もし、自分を神としてしまっているのでしたら、嵐を凪に変える力のあるお方に、救いを求めて祈りましょう。祈ることは許されています。しかし、救いと自由と栄光は神のものです。

(※引照 C.H.スポルジョン著『朝ごとに夕ごとに』いのちのことば社)

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