『神を喜び、神が喜ぶ祈り』(マタイ6章7節〜15節) ( 3.15/2020 ) |
「ですから、あなたがたはこう祈りなさい」。(9節、新改訳2017) 序. 山上の説教の続き。特に祈りについて学びたい。 1. 神か自分か ここに信仰者の三つの善行、義務(正しい行い)についての注意が書かれている。偽善者のような施し、祈り、断食をするな、と。旧約の預言書などを見ると、神がイスラエルを裁かれた原因は偽善的宗教行為の故だったと分かる(イザヤ58章など)。神は偽善を忌み嫌われる。この三つの義務は本来、神を喜ばせる美しいもの。偽善は美しさに隠れて、その行為・その相手を利用して自分を満足させる冷酷さがあり、神の栄光を自分に横どりする盗み。「あなた」は「父」なる神を愛し、その愛を求めよ。 祈りに関してもう一つ避けるべき例が書かれている。異邦人のように祈るな、と。 異邦人(異教徒)とはどこが違うか。聞いているかいないのか分からない空を打つような祈りではなく、祈る方がどのような方であるか、知って語る祈り。まず、聖書によって御言葉を黙想し、自分に語りかけておられる神と交わる対話。祈りはまず聞くこと。 聖書から私の信じる方はどのようなお方か、私に何をしてくださったか、を黙想する。 2.神を喜ばせる神の御心にかなった祈り 主イエスの祈りの生活を見て弟子達は自分達の祈りとは違うと感じた。そして主が開かれた祈りの世界、祈りのエッセンスが主の祈り。主の祈りに自分の祈りが寄り添ってくる時、イエスと御父との祈りの交わりを知ることになる。 六つの祈りの集約は第一の「御名があがめられますように」。ここにすべての祈りは集約される。神の支配が行き渡る御国の完成、そのために神の摂理である御心(神の計画)が成就されること、それが御名があがめられるということ。 3. 御国の完成のための最後の難所が人間 世界は神の支配の中にある。人間だけが神に従わない。「御国をまず私の内から始めてください」。人が従う時、御国は完成する。その秘訣が後半三つの祈り。 1)「糧を与えてください」。災害など非日常な日々になる時、日常は当たり前に あるのではないと気付く。神に与えられずに持っているものは何もない。私 達は貧しい者。日々神を仰いで神から来るもので生きるべきもの。神の御手の中に生きる時、満たされないものは何もない。私達は神を仰いでいるか? 2)「負いめをお赦しください」。マタイ5章で怒りは期待を裏切られることから起こることを知った。相手に「感謝してほしい」、「謝ってほしい」、「自分を大事にして(軽く扱わないで)ほしい」という期待に添わないと、自分の価値を下げられた気持になる。自分の期待に添ってもらって初めて心静まる。 では、神に対する私達の態度はどうか?神がしてくださっていることにもし見返りを求められたら?私達の神への感謝、尊敬は十分か?もし、私達が神から「私のことを軽く扱っている!」と怒られても当然ではないか?それが私達の神への負債。自分が怒り悲しむ以上にどれほど神が顧みられていないことか?神はその負債(罪)を赦してくださった。赦されて初めて人は人を赦すことができる。奪われても神が充足してくださるから損はなくなる。 3)「悪からお救いください」。恵みの後に失敗が待っている。恵みの栓が必要。 おわりに. とこしえまで 主の御名のために私を支えるのは主(詩編23篇)。いかなる時も神の御手の中に信頼し、神の支配に従い、御名を賛美するものとならせていただこう。 (説教者:田代美雪牧師) |
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