「律法から自由な福音」(ガラテヤ 3章1〜14節) ( 2.13/2011 )
「キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべて呪われる」と書いてある。」 (13節)

ガラテヤ地方は小アジア中央部よりすこし北の内陸部を指し、リストラ(ルステラ)やイコニオン(イコニオム)よりもかなり北部に位置します。パウロは第二回伝道旅行でエフェソス(エペソ)を訪れようと計画していましたが、マラリアに罹患し高熱を発したために涼しい高地で療養せざるを得なくなり、ガラテヤ地方で長期滞在します。その時、同時に眼疾も併発しますが、その地方の人々から自分の眼をくりぬいてでも見えるようにしてあげたいと言われ、パウロは非常に感激し、ケルト諸族の異民族住民に福音を広めました。しかし、第3回伝道旅行のはじめに小アジア内陸の地ガラテヤ地方の教会を通過したパウロは、彼ら異邦人が「他の福音(ユダヤ的キリスト教)」に転向した(割礼を受けた)事に驚き憤激し、53年か54年頃にエフェソス(エペソ)から叱責の手紙を書きました。それがガラテヤ人への手紙です。

1. 律法遵守の逆風の中で

当時のパレスチナでは反ローマ抵抗運動(ゼロテ党のテロ)が始まり、民族主義が昂揚して、外国人排撃の風潮が高まってきた時期でした。小アジア地方のパウロの開拓した異邦人の「家の教会」は、エルサレム教会等による律法遵守の暴風にさらされ始めます。ガラテヤ教会は、パウロが最初に開拓した最も親しい教会であったにも関わらず、数年の間にパウロの教え「律法から自由な福音」を簡単に捨て去ったのです。エルサレム教会かあるいはアンティオキア教会から来たユダヤ人巡回教師により、異邦人改宗者に使徒でもないパウロの教えは間違いだから、ユダヤ的キリスト教に立ち戻り、律法で決められている割礼を受けるよう教えられ、彼らもそれに従いました。それに対してパウロは、再度キリストの「律法から自由な福音」に立ち戻るよう激を飛ばします。

2. キリストが私たちの為に呪いとなられたとは?

人はもはや律法では神から義とされません。律法の条項を行うものはその条項の中においてのみ生きるのであり、神の恵みの中に生きるものではありません。律法の業績からの者は皆呪われているのです。キリストは私達の為に、自ら呪いとなること(律法では呪われたとされた十字架の死)により、その呪いから開放してくれたのです。

3. アブラハムへの契約は生きている

1−14節では、義とされるのは、律法遵守によるか信仰によるかを論じてます。信仰によって義とされる理由は何か?霊の恵みは、律法によらず、キリストの信(福音)によるとパウロは言います。福音を信じたからこそ、聖霊の恵みを受けたのです。それは、アブラハムが信仰によってのみ義とされたように、私達も福音を信じる信仰によって義とされ、また聖霊の恵みを頂く事も出来るのです。アブラハムに神が与えた約束は今も生きています。そして、信仰によって生きる人は、異邦人であろうと同じアブラハムの子なのです。書物(聖書)には、異邦人であるあなた方も、信仰によって義とされると書かれているのですから。

4.律法から自由な福音

「しかし、働きはなくても不信心な者を義とする方を信じる人は、その信仰が義と認められるのである(ローマ4:5)」とあります。キリスト教の救いとは、律法(行為)によるものではありません。律法の呪いはキリストによってもう無くなったのです。この福音により私達は、束縛から自由へ、律法から解放されたキリスト者として生きることができるのです。

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