「踏みつけられた首」(ヨシュア10章24節) ( 4.6/2020 )
「彼らは近寄り、王たちの首を踏みつけた。」(24節)

ヨシュアは、指導者たちに(恐れてはならない)ということを教えるために、捕えてきた王たちの首を踏むように命じます。酷いことが行われたのですが、恐らく、神を恐れない行動はそれ以上に残酷なことを行っているのだろうと感じるのです。私たちには罪に反抗する力がなくても、神は必ず攻め取ってくださるのです。この10章は、ヨシュアが12章8節、10節から13節、15節、16節に数えられている王たちを一度に攻め取ったという内容になっています。

1.主が人の声を聞かれた日(14節)

エルサレムの王はヘブロンなど4人の王たちに呼びかけて、イスラエルにくみしたギブオンを攻めに来ます。そのギブオンを救うためにヨシュアたちは夜襲をかけるのですが、その戦いは主(神のこと)が敵を乱され、また主が雹を天から降らせて敵軍を殺されたというのです。その日、ヨシュアは「太陽よ、ギブオンの上で動くな。」と命じ、主がそれを聞き入れてくださって、まる一日ほど太陽が中天にとどまって、急いで沈まなかったというのです。
まる一日、あっという間に決着した戦争。神が太陽をまる一日とどめて味方された戦争。私たちが罪から救われるための戦いもこのようにあっという間に決着していただきたいものです。主は人の声を聞き入れられた、主がイスラエルのために戦われた日があったというのです(14節)。

2.人を救う神

主が戦ってくださったのでヨシュアたちは勝利を得たのです。神を求める私共のためにも、主が働いてくださることはないのでしょうか。ジョージ・ミューラーは家庭集会で二人の人物の祈りを聞いて帰宅した夜に人生が変わります。彼は救われたのです。父親から牧師になることを期待されていましたが彼は宣教師になる夢を持つことになるのです。そして、神によって道が開かれるのですが、宣教師の学びをしながらも、毎日12時間勉強する半年間が苦痛だったというのです。勉強が嫌なのではなく、(この時間を主イエス様のことを人々に伝えるために使いたい)と強く望んだのです。主イエス様はジョージ・ミューラーに何をなさったのでしょうか。

3.まる一日で首を踏みつけるお方

ジョージ・ミューラーは家庭集会からその日の夜の間、この時間で決着したのです。罪の根っこが主イエス様の足の下に踏まれたのでしょうか。彼の人生を変えた家庭集会での祈りの言葉とはどんな言葉だったのでしょうか。その内容はわかりません。しかし、一所懸命に祈り想像してみたのですが、聖書には「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」(ローマ3章22節)と記してあります。神様の目は私共の罪を見ないというのです。罪の罰はイエス様が受けてくださったからだというのです。はたして(神が私共の罪を見ない)これを信じられるかどうか、これは救われてみないと分からない問題なのです。頭では皆理解できますが、心の性質が神を嫌うか、または愛するか、明確に変わり、変化を自覚できるのです。

首はみな、もたげたいのではないでしょうか。けれども、考えなければならないのはどんなにもたげてみても、サタンの首輪に引き回される首なら悲しいのです。失礼なことを言っているかもしれません。どんな姿が理想なのでしょうか。使徒パウロは「私にならう者となってください」(1コリント4章16節)と言いました。すなわち、クリスチャンに会ったら、または牧師に会ったら、「あなたに倣って良いですか。」と聞いてみなさいという意味です。

主が来られる、その時がさばきの時(1コリント4章4節、5節)です。人の評価(さばき)は偽物です。悔い改めるべきことは、今日のうちに、決着を求めて主に祈りましょう。「主がイスラエルのために戦われたからである。」(14節)「前にも後にもなかった」(14節)。すなわち、「一回でいいですから」と祈りましょう。

TOP