「復活」(1コリント15章57節) ( 4.13/2020 )
「しかし、神に感謝します。」(57節)

うちの娘のハムスターは時に、檻にぶら下がっています。脱出を試みているのです。まるで死からの脱出を望む人間のようです。森鴎外の『高瀬舟』ではたった一人の肉親である弟を死に向かう苦しみから解き放つために手を貸して罰せられる喜助がでてきますが、死の問題の解決はどこにあるのでしょうか。ハムスターは生きることを望んでいるのです。しかし、神を見失った人間は死を望み、その苦しみは比較にならないほど重いものなのです。しかし、主イエス様には救えるのです。マタイ20章28節に、すなわち、「いのちを与えるため」とあります。そして十字架の目的は「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(へブル2章14節〜15節)

1.敗北続きの人間

病にも抗えない。それが人間であり、現在も多くの悲しみが世界にあります。しかし、「われわれが死について考察する時には、いつもわれわれは観察者として実在していることを理解できるだけである。」(フロイト)そして、精神分析学上の仮説では、だれもが自分の死を信じていないという説をあえて立てることができたそうです。

2.聖書が教える死の起源

アダムとエバが神の言いつけに背き、彼らは神が歩まれる音をさえ恐れるようになってしまったのです。(死には三種類あります。身体の死、霊的な死、永遠の死です。身体の死は、呼吸の停止、心拍の停止、一般的な運動の停止、無感覚、筋の弛緩、特異な顔貌すなわち蒼白で目が開くなどで、霊的な死とは、罪の暗さの中を通ることで神から離れている人間の状態です。そして、永遠の死は、悔い改めて神に立ち返る能力と機会の最後的喪失のことです。黙示録21章8節には「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」とあります。)そして、彼らは神から身を避け隠れるのです。そして神から呪われます。そこに、「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」(創世記3章19節)この死の力はどんな人格者も跳ね返せませんでした。例えば「命に替り身に替らむと、忠を存ぜし数万の軍旅は、堂上、堂下になみ居たれども、これは目にも見えず、力にもかかはらぬ無常の殺鬼をば、暫時も戦い返さず。また帰り来ぬ死出の山、三途川(みつせがわ)、黄泉中有の旅の空に、ただ一所こそおもむきたまひけめ。日ごろ作りおかれし罪業ばかりや、獄卒となって迎え来たりけん。あはれなりし事どもなり」(平家物語)平清盛には数万の命をささげようとする方々がいたそうですが、「暫時も戦い返さず」いのちを伸ばす手伝いはできなかったことがわかります。けれども聖書はもっと深く、神を見失う苦しみを描写しています。創世記の4章には、神がカインのささげものには目を留められなかった。という事件が起こります。しかし神に悔い改めることができないのです。そして、いのちを伸ばせず罪業を迫られながら悶死するどころか、肉親に殺意を抱き「罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」と告げられるのです。しかし彼は罪に恋い慕われ治めきれなかったのです。すなわち、罪と死のあらすじを造ったのは神様、その神様を無視して自分勝手に生き、戦っているのが人間という構図が見えます。どうすれば悔い改めて神に立ち返ることができるのでしょうか。

3.復活

キリスト教会の洗礼は、キリストの死にあずかるバプテスマと呼ばれています。アダムの堕罪によって死が世界に入ってきたように、イエス・キリストの死によっていのちによる支配が始まるのだと教えてくれています(ローマ5章17節)。すなわち、クリスチャンになるというのはサタンの奴隷を辞めますという宣言です。そして、十字架上で流されたキリストの血潮は私共をきよめるのです。
「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」(へブル9章14節)御子の血の力とあなたの罪を愛してしまう力とどちらが強いか明暗は明らかです。「岩のごとく 固き心 砕くものは 御力のみ」(新聖歌232)神には救う力があるのです。神に力があり、私共に許されているのは信仰だけです。

わたくしたちは終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
「朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた。』としるされている、みことばが実現します。『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(1コリント15章52節〜58節)
「みな走っても、賞を受けるのはひとりだけだ。」(1コリント9章24節)ひとりだけという栄冠を目指しましょう。復活するだけでなく、朽ちない栄冠の道があります。もし、暗い道を通されておられるのでしたら、卑下することなく神を信じて(このままで、あなたを愛する者に変えてください)と祈ってみませんか。苦しみを通らないで勝利を得る人はいません。すなわち、復活はゴールを通るときです。互いに励まし合ってゴールを目指しましょう。

「彼らは大声で言った。『ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。』また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。『御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。』。(黙示録5章12節〜13節)これは天国での賛美の様子です。
罪を治める、それができたのは、殺されてくださった主イエス様だったのです。

(参考図書 小畑進著『キリスト教慶弔学辞典』 いのちのことば社)

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