『召命の原点回帰』(ヨハネ21章1節〜15節) ( 4.19/2020 )
「さあ、来て朝の食事をしなさい」。(12節)

序. 日本の歌謡曲に「桜」の名曲が多い。桜を見ると様々な感情が呼び起こされる。
今朝の箇所も弟子達に様々な感情を呼び起こす故郷ガリラヤが舞台。復活された主イエスは昇天・ペンテコステを前にして弟子達にガリラヤで何を伝えたかったのか?

1. 召命の原点回帰

ヨハネ福音書は20章で締めくくられている。しかし、ヨハネはもう一章加えた。ペテロの召命の回復を伝えるため。なぜ弟子達はガリラヤに帰ったのか?祭りが終わり、エルサレムでの用は済んだ為。しかし、神の側から見ると、それはペンテコステ以降エルサレムから始まる教会時代、世界宣教時代の前の最後のお里帰りだった。
場所は故郷ガリラヤ湖。そこでペテロ達はすることもなく懐かしい漁に出掛けた。しかし、久し振りとはいえ、その晩は一匹も魚が網にかからなかった。疲れきった朝、一人の人が岸から声をかけ、その声のままに舟の右側に網を下ろすとおびただしい量の魚が網に入った。「あ!こんなことが前にあったぞ!とすると、あの岸から声をかけたのは!」と弟子達は思った。ペテロは思わず上着をつけて主イエスのもとに泳いで行った。岸には炭火が起こしてあり、その上に温かいパンと魚が焼かれていた。

2.「さあ、来て食べなさい」

弟子達は主の前に話しかけることができなかった。十字架前夜、最後の晩餐の時に、ペテロは「死なねばならなくなってもあなたを知らないなど申しません」と言い、みなの者もそう言った(マルコ14:31)。しかし、そのすぐ後で「みながイエスを見捨てて、逃げてしまった」(マルコ14:50)。ペテロも三回「その人を知りません」(マルコ14:71)とイエスとの関係を切った。彼らの失敗の原因はどこにあったのか?それは自分を過信していたことにある。「自分がイエス様の弟子にふさわしい」。「わたしなら」、「わたしが」、「わたしは」、という自我。その結果が不漁。しかし、前回の大漁の時、ペテロはイエスの前に跪き、神を前にして畏れ慄いた。弟子の条件とは、神の前に畏れ慄き、主に信頼してただ主につき従うことだ、と今回の奇跡でもう一度思い出した。彼らは自分達の失敗の原因を悟り、もう一度神の前に無力な空の器となった。失敗で心痛み、心身疲れ、先行きが見えず、目に見えない責任感が自分に重くのしかかっていたペテロに主は何をされたのか?黙って食事と暖を与えた。

旧約時代、炎の預言者エリヤが疲れきって「命を取ってください」と言った時、主の使いはただ「起きて、食べなさい」と言った。彼らは理屈抜きで、ただただもてなされ、お腹が満たされ、体も暖まって、心も体も元気になった。
信仰者も疲れて良い。「食べ、かつ飲んでまた寝た」(列王記上19:6口語)。

3. 初めの愛を思い出して

かつて三度イエスを否んだペテロに、主イエスは三度、「わたしを愛するか?」と問われた。三度目にペテロは心に痛みを覚えた。「イエス様がこれほどまで私を愛してくださっているのに、自分は初めの愛を忘れていた(黙示録2:4)」との悔い改めを起こす痛み(Uコリント7:10)。主の熱い愛が迫って高慢の分厚い氷の心の壁が溶かされた。主にどれほど愛されているかを知った者に、主は「わたしの小羊」を任される。主に愛されることが信仰の動力。

おわりに. どこからでもやり直せる。初めの愛を思い出して。

モーセも40年退いた所から呼び出された。主の愛を知った初心に帰り、今日も主に愛されて、主の務めに与ろう。
(説教者;田代美雪牧師)

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