「かたくなにされた人々」(ヨシュア11章20節) ( 4.26/2020 ) |
「かれらの心を頑なにし、イスラエルに立ち向かって戦わせたのは、主から出たことであった。それは、彼らを容赦なく聖絶するため、主がモーセに命じられたとおりに彼らを根絶やしにするためであった。」(20節) この11章は、北方の山地、キネレテの南という言葉から、北方の王たちとの戦いであったことがわかります。しかしこの戦いの特徴は、長い間にわたってヨシュアはこれらの王たちと戦った(18節)と記録されています。そして、長期化の原因は9節に馬の足の筋を切り、彼らの戦車を火で焼いたという戦い方に見出せると思います。この馬に相当するものを第二次世界大戦で考えてみますと飛行機でしょうし、現代ですと長距離ミサイルといったところでしょうか。この北方の国々との戦いにおいては武力に頼んだのではなく、神の助けにより頼んで戦ったことがわかります。 1.何と戦ったのか なぜ、馬と戦車(長距離ミサイル)を捨てるのか、日本は所持していないと思いますので関係ない話かもしれませんが、アメリカや北朝鮮では考えられない戦略だと思います。しかし、イスラエルは戦う相手が根本的に違うのです。イスラエルは神に対する自らの不従順に対して出エジプトをして以来40数年間戦い続けているのです。神が馬と戦車を捨てよと命じられたので彼らは神に従ったのです。 2.彼らの勝利はどこから来たのか 「主がモーセに命じられたすべてのことばを、彼は一言も省かなかった。」(15節)イスラエルには神の命令通りに従う指導者がいたことがわかります。すなわち、これが勝利の秘訣でした。一方、日本人は神に祈らない(神との会話がない)、聖書も読まない(神の声も聴かない)という状況が一般的になってしまっており、神に対する不従順なんて当たり前なのではないでしょうか。(そのとおり、当たり前だよ)とお答えになるかもしれませんが、聖書にもそういう人々が出て来るのです。どこにでて来るのかと言いますと、この11章でいいますと聖絶される人々です。(人を殺す神様は好かん)と耳をふさがれるかもしれませんが、本当は、あなたが日々恐れているのは、愛なる神ではなく罪にしばりつける悪しき力(存在者)なのではないでしょうか。 3.偶像を所持し神に従いえない自我(申命記8章19節〜20節、9章5節、18章10節〜12節)の問題 主がヨシュアに告げられたのは、6節「彼らを恐れてはならない。」でした。すなわち、私共がどんなにサタンを恐れて従属させられていても、ヨシュアだけはサタンを恐れないのです。私共の内に神に従えない自我が残っていたとしても、神はヨシュアを用いて根絶やしにしてくださいます。 頑なにされているのは(苦しみがあるのは)根絶やしにされるためですから、希望はあるのです。すなわち、主イエス様をリーダーにしさえすればよいのです。自我の場所にイエス様が来てくださるのです。キケロは、「死の後に我々は無であるか。しからざれば、われわれはまったく幸福であるだろう。」と言い、これならだれも生き抜く力を得ないのです。しかし、われわれの良心のあかしするところは、ルターが言うように「われわれにはそれ(死)が不当に生起するものではない。罪が大きければ大きいほど死もまた悲惨であるから」ということです。黙示録14章13節には「しかり。その人たちは、その労苦から解き放たれて安らぐことができる。彼らの行いが、彼らとともについて行くからである。」ゆえに、もし神を信じるなら、生きながらにして自我に死にキリストに生きていただくことは勝利であるととらえることができます。すなわち、肉体は日々衰えても、内なる人は日々新たにされ(2コリント4章16節)、栄光から栄光へと主(キリストのこと)と同じ姿に変えられていくのです(2コリント3章18節)。キリストはサタンを恐れないのです。もし、あなたがキリストを信じるなら、サタンに蹂躙されず、一時的な患難につぶされず、永遠の重い栄光に向かって歩めるのです(2コリント4章17節参照)。平たく言いますと、苦難によって足踏みせずに、神を愛せるそんな人生に変えられるのです。まず、主イエス様をリーダーとするために聖書通読とお祈りから始めてみませんか。 |
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