『神の住まい』(ヨハネ14章1節〜6節) ( 5.17/2020 )
「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります」「わたしが道…なのです」。(26節)

序. 引越しをする時、一番最初に準備するのは住まい。行く先が定まっていることほど安心なことはない。私達は行く末の場所の備えがあるろうか?

1. 父の家の住まい

今月は本来は召天者記念礼拝を行う月。今は天におられる召天者を憶えて共に礼拝をささげたい。

今朝開かれている聖書箇所は、最後の晩餐の場面。十字架にもうすぐ架かることを弟子達に暗に語られるイエス。意味が分からないながらも動揺する弟子達に主は「心を騒がしてはなりません」と言われた。なぜか?それはあなたがたの将来を準備するためだからだ、と言われた。将来が見えないことほど不安なことはない。現代もかつて経験したことのない危機に見舞われて世界中が震撼している。先行きの見えない不安の雲が覆っている。しかし、主は「心を騒がせるな」と言われる。

外でどれほど疲れる戦いがあっても、もし休息を取れる帰る家があるならば、人はいかなる苦難にも再び立ち向かうことができる。しかし、人はその確かな家を持っているだろうか?たとえ、死によっても打ち壊されない家。永遠の住みかがあるのだろうか?医者の藤井圭子先生は、14歳で「人は死んだらどうなるのか?」と思い、確かなもの、絶対なもの、永遠なるもの、絶対聖なるものを求め、医者を辞めて尼僧になり、仏の道も修業も極めた結果、そこには観念しかない、と失意の中に医者に戻った。そして自分の偽善の罪に苦しむ中、「私もあなたを信じたい!助けてください!」と清水の舞台から飛び降りるつもりでイエス・キリストに飛び込んだ時に、「ああ、神さま、あなた様はやっぱりいてくださったんですね」と三十年求めて、初めて平安を感じ、罪を洗い清められ、救いにいたり、今も多くの人々に証ししておられる。「生死の問題」も氷が解けるように解決し、「私は天地万物の創造主なる神さまによって造られ、愛なる神によって生かされ、御子イエスの十字架の贖いによって罪赦され、神の栄光のために行き、やがて天の父なる神にさまの御許に帰って行く!」とわかられた。私達は永遠の保証を得ない限りは平安はない。現在も、また永遠に私を保証してくださる方の中に生きる、それが「父の家」。「人は神に向かうように造られた。ゆえに神に帰るまで真の平安はない」とアウグスティヌスは言っている。

2.「わたしが道である」

しかし、人はその神の家を出てしまっている存在。放蕩息子は父の家に帰った時、服を着せられた。おそらく、それは体を洗われてからのことだろう。罪人である私が聖なる父の家に入るのに、罪の洗いが要る。一点の罪もない御子イエスは、私の罪を負い、私の代わりに十字架の上で神の怒りを注ぎ尽くされ、私の罪を洗い清めてくださった。その洗いのゆえに、私ははばかることなく父なる神に家に入ることができる。主イエスの体が、私が神に帰る生きた道となり、「場所を備えに行」かれた。

「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです」(ヘブル10:20)

3. わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるため

聖霊は見えない神との交わりを助ける「助け主」。心が燃える(Tペテロ1:8)。

おわりに.天の故郷にあこがれて

地上に生きながら天のゴールを持っている者は幸い。再会の望みも感謝。
(説教者;田代美雪牧師)

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