「自分の義ではなく」(ピリピ3章9節) ( 5.31/2020 )
「キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。」(9節)

(義とされたと思ったが罪を犯した。恥ずかしい。もう教会には行けない。)こう思ったことのある方がおられるのではないでしょうか。しかし、自分の義を目標としたこと、ここが間違っています。神から与えられる義、これが真の目標です。

1.自分の義という悪

パウロが見せられた自分の義の対極にあった神の義とは十字架でした。あなたの正しい行いゆえに救われるのではなく、十字架のゆえに救われるということです。(すみません。それは知っているのですが罪を止める力がなくて悩んでいるのです。欲望を神とし、恥ずべきものを栄光とし、地上のことだけを考えてしまうのです。)という人々のために今日の聖句があります。義は神が与えるのです。私共には何もできないのです。マタイ18章33節にあわれみという言葉が出てきます。神は憐み深いのです。続くマタイ19章22節に、金持ちの青年がお金を施すことができないで立ち去る場面があります。しかし、20章30節には「私たちをあわれんでください」と叫んで聞き届けられ、主イエス様について行った二人の人がでてきます。自分には義がないことを謙虚に認めて憐み深い主イエス様に対して叫べばよいのです。

2.神から与えられる義

義って、自分にはあって、あの人には無いものかな。なんて思っておられませんか。でも自分の心の中を覗いてみると、罪でいっぱいなのは自分の心なのでした。このことを痛烈に見せられたのがパウロでした。彼は律法によって復活できると信じていた人でした。しかし、キリストの復活を目撃して、律法の先ではなく十字架の先に復活があることを知ったのです。そして、律法の誇りを捨ててキリストの弟子になったのです。律法を求め、欲望を神とした時代に涙し恥とする生涯に入れられたのです。しかし、今日のポイントは、このことが彼の知恵に由ったのではないということです。神から与えられたと伝えています。

3.なぜパウロは十字架を負えたのか

あいまいさはどこにもあるかと思いますが、今日のテキストはそれを許してくれません。神から義を与えられたなら、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になることを求めるのだ、このことを捕えようとして追及するのだというのです。それは、ピリピ3章12節、「キリスト・イエスが私を捕えてくださった」からだと告白しています。(捕えられていないなら十字架を負えなくてもいいのです。)ただ、どんなに小さな存在であっても、主イエス様が捕えてくださった時からその生涯は変わるのです。

なぜ、彼にはそんな力があるのでしょうか。この不思議な出来事の答えそれは、主イエス様には権威が与えられているからです。ヨハネ16章14節「御霊はわたしの栄光を現わされます。」、へブル2章9節「イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。」、ヨハネ16章15節「父がもっておられるものはすべて、わたしのものです。」、エペソ1章22節「神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストをすべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。」
私共に求められているのは何でしょうか。キリストの幕が裂かれるところを仰ぎ見ることだけです。「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。」(へブル10章20節)聖所から至聖所の臨在の交わりへと主イエス様が導いてくださるのです。

自分の義が、少しでも色あせたでしょうか。このことは主イエス様がしてくださる御わざです。
西行は讃岐に流されて葬られた崇徳院(すとく上皇のこと)についてその墓所を訪れて、「ただ衣食住のために経営せられ、これを最上の目的なりとすれば、その無意義もまた何ぞはなはだしきや。…天賦の希望と抱負に準じて行動し、これに背馳せざるを要す。秒、分、時の計画あり、十年、一世紀の生活の計画あり、また限りなき生活の計画あり。われらは深く考えてみずから悟るを要す」と語ったそうです。では、どこに希望があるのでしょうか。それはキリストの復活の事実と御力です(ピリピ3章21節)。「霊ある体なくして、完全なる個人ではない。キリストの霊を受けたるものは、またこれに相応するの体を与えられて初めて完成せらるるのである。しかして、その時はすなわちキリストの再臨の時である。再臨ありて信者の復活あり、復活ありて愛する者の再会がある。…肉体の救いは人類の実際的要求である。しかしてまた聖書の明示する真理である。」(内村鑑三)

自分の義(すなわち欲望、恥ずべきもの、地上のこと)というキリストの十字架の敵は、あなたの力ではなく主イエス様の権威によってのみ捕えられるのです。自分で自分の身を守るのではありません。主イエス様が私共を悪しき力から守ってくださるのです。キリストにとらえられる日、それがペンテコステです(ピリピ3章12節)。

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