「ネゲブの泉」(ヨシュア記15章63節) ( 6.7/2020 ) |
「エブス人を、ユダ族は追い払うことができなかった。」(63節) 1.エブス人とは 「エブス人を、ユダ族は追い払うことができなかった」(63節)追い払わなかったではなく、追い払うことができなかったというのです。ヨシュア記10章23節、26節を読みますと、エブスすなわちエルサレムの王様はヨシュアによって既に殺され木にかけられ洞穴に葬られているのですがエブス人には太刀打ちできなかったのです。しかし列王記第一9章20節21節にソロモンが強制労働に徴用したとあります。モーセの死が紀元前1406年、士師記のはじまりが紀元前1375年、その間の期間において神に立てられたのがヨシュアですので、ヨシュアの時代からソロモン(紀元前970〜紀元前930)まで約440年間もエブス人はエルサレムに住み続けています。 ヨシュア記15章はユダ族の領地の境界と領有した町や村の名前、それにカレブが娘アクサに泉を与えるという内容なのですが、歴史的に重要になるエルサレムについて、先住民であるエブス人を追い払えなかったという状況が描かれ終わっています。 カレブはオテニエルにキルヤテ・セフェルを撃たせる(16節)のですが、エルサレムではなかったのです。なぜかわからないのですが、それが、神が歴史に刻まれたメッセージなのです。しかし440年は長いと感じます。 あるクリスチャンは青年時代に主イエス様を神として信じ洗礼を受けたのですが、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。」(ルカ5章31節)で救われたと証ししてくださいました。神の愛を日々受けていても神に対して心を開かず、そのことばを無視する。この心こそが本物の病だと知って神を信じたのではないでしょうか。 オテニエルやカレブの娘アクサに自分の姿を映すことはできてもエブス人に自分の姿を見ることはなかなかできないのではないかと思うのです。どうすればよいのでしょうか。 2.エブス人の視点 エブス人の感覚では、泉も良いものであることはわかるが必要ではないのです。ルカの福音書16章で考えてみますと、主イエス様はラザロの話をされますが、アブラハムの懐もさまざまな慰めも良いものではあっても、それらは金持ちにとっては必要なものではないのです。ぜいたくに暮らす金持ちが欲したものは、苦痛からの解放なのです。ゆえに主イエス様の十字架の苦しみと復活の出来事もラザロのたとえ話程度の意味しかもっていないのです。弱者が社会から虐げられた出来事としか見ていないのです。しかし泉であるお方を無視する時、愛は枯渇してしまうのです。 3.泉がある この15章でわかることは、カレブが娘に与えた泉はふたつでした。すなわち、受けた恵みは、求めた恵みの2倍だったということです。もし神に従い始めるなら、妻を愛せない人がおられるなら、憎しみが赦しに変わる程度ではなく、愛にまで変えられるでしょう。 エブス人とは誰のことでしょうか。神のおられる世界に生きることは快楽に勝るものです。主イエス様は「十字架を負って従いなさい」と言われました。主イエス様の十字架とは、馬鹿にされたり、唾をかけられたり、打たれたりすることでした。良い生活には思えないかもしれませんが、神はそこにおられ心と人生は主イエス様によって癒されるのです。今必要なものは砦ではなくネゲブの泉ではないでしょうか。(城壁ではなく神からの慰めではないでしょうか。)神は泉を与える力を持っておられるお方です。オテニエルに力がなくても神になら救えるのです。私共の周りはネゲブ(神の恵みを必要としている地)だらけなのではないでしょうか。神に求めてみませんか悲しみのある地の泉を。罪に苦しむ人々のことを覚え続けておられるのは、他の誰でもなく神ですから。 |
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