「ゲゼルの問題」(ヨシュア記16章10節) ( 6.14/2020 )
「ただし、彼らは、ゲゼルに住むカナン人を追い払わなかった。カナン人はエフライムのただ中に住んだ。今日もそうである。カナン人は強制労働に服することになった。」(10節)

エフライムとは、ヨセフの子で祖父にあたるヤコブから特に祝福を受けた人物でした(創世記48章)。ところが、この16章に嗣業の地の境界がしるされた後、ただし書きとしてわざわざカナン人を追い払わなかったことが指摘されています。またゲゼルといえばレビ人ケハテの子孫に与えられた地です(ヨシュア記21章21節)。イスラエルの中で最も良い地を嗣業として受けていて、更に「イスラエルの神、主が彼らへのゆずりである。」(ヨシュア記13章33節)といわれるレビ部族の居住地がカナン人の町として残ったというのです。

1.カナン人とは

申命記20章17節、18節にはカナン人を聖絶することが命じられています。それは、「彼らが神々に行っていたすべての忌み嫌うべきことをするようにあなたがたに教え、あなたがたが、あなたがたの神、主の前に罪ある者とならないようにするためである。」その他、申命記7章にも他の神々に仕えさせる存在として聖絶が命じられています。それは、イスラエルが正しいからではなく彼らの邪悪を神が追い出そうとされていたのでした(申命記9章4節、5節、18章12節)。そして、その地はそこに住む者を吐き出すと言われるのです(レビ記18章25節)。
カナン人のパンテオン(万神を祭る宮)の主神エルは、貪欲、下品、乱暴、犯罪の英雄でした。このエルが諸神の先祖とされるカナン人が一般的に崇拝したバアルはエルの子でカナン人のパンテオンを支配していました。その3女神、アナス、アシタロテ、アシラは皆性欲と戦争を後援、支援、賛助、奨励するもので売春婦の偶像でもありました。すなわち、不道徳で、腐敗と汚れもはなはだしいものであり、その偶像崇拝者の生活を破壊に導く危険性が多分にありました。

2.私たちにとってのカナン人

まず、歴史的にこのゲゼルに住むカナン人の文化はエジプトの王ファラオによって簡単に焼き払われてしまいます(1列王9章16節)。どんなに未練がましく世を愛し、神に逆らっても、エフライムが逆らう時、神はエジプトを用いてでも、み旨を行われるということがわかるのです。また、同時に言えることはエフライムだけでなく私共もまた弱い存在だということです。

新約聖書マルコの福音書9章には息子の病のために主イエス様に願い出る男が出てきます。この男の言葉から教えられるのは、病に苦しめられているのは息子ではなくこの男自身の心であるということです。不信仰なのは息子ではなく自分自身なのです。神のあわれみと助けと神に対する悔い改めが必要なのは息子でなく自分自身なのです。
すなわち、このヨシュア記で考えてみますと、カナン人に問題があるのではなくエフライム自身が罪に負け、罪を宿しており、エフライム自身(ケハテ人自身)が、自分の心の中の問題のために神に救いを求め続ける必要があったのではないでしょうか。自分自身の問題なのですが主イエス様を信じないと救われないのです。しかし、私共の救いをあきらめないでいてくださるのは神のほうなのです。「いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。」(ルカ15章4節)。
(参考図書 『聖書辞典』 1961 いのちのことば社)

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