『心配しない』(マタイ6章26節〜34節) ( 6.22/2020 ) |
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、 これらのものはすべて与えられます。」(33節) 序. 先週は「花の日」、今朝は「父の日」。天の父と野の花との関係から、「心配しない」秘訣を学びたい。 1. 心配は心を割く、心を支配する マタイ6章前半の主の祈りには「天の父」について語られている。マタイ5〜7章の山上の説教は神の民に向けて語られた説教。クリスチャンは、主イエスの贖いによって、「アバ父」と呼ぶ御子の霊を特権として受けた(ローマ8:15)。神が天の父だと知っていることが「心配するな」のメッセージの根底にはある。 この箇所にたった10節の中に「心配」という語が7回も出てくる。人は10日に7回は心配する心配する生き物。何によって心配するのか?第一に富(宝)によって。 19〜24節。心配の何が悪いのか。それは「心を分け」、「心を支配する」から。 「健全」の意味は「単一」。一つ心。本来、神への信頼で心が一つであるはずが、心がバラバラに分けられ、ともすると、そちらの方が心を支配し、神への信頼心を弱らせる、遂には閉め出してしまうことになる。それは魂を病ませる危険。 第一の原因は富・宝への心遣い。心配が起こる。またそれに囚われ、神をも人をも生活をも押しのける危険がある。ついには、神の命の実を結ばず、心も疲弊・消耗させる恐ろしい支配力がある(マルコ4:19)。 2.被造物の生き方 もう一つの心配は「生活の必要」に関して。それに陥らないためには、イエスは「被造物を見てそれから学べ」と言われた。人間以外の被造物はなぜ心配しないのか?被造物は神の領域を侵すことをしょうとしないから。心配とは神の領域、神の仕事。ハムスターは檻の外に出たら死んでしまう。だから、飼い主はペットのことをいつも心配して配慮している。ペットは飼い主に命を委ねている。信じて安心している。野生の動植物は天の父に命を委ねている。死や試練がないのではない。しかし、その背後に神の存在を認め、神の支配に信頼している。私たちは生きているのではない、生かされている。神を知らない人と同様、試みられる。しかし、現実の向こう側に神の支配を信じ、それに委ねることができるのが信仰者。 3. 使命に生きる 花には花の目的がある。心配からの解放の秘訣は使命に生きること。私たちには神の目的がある。悪魔を父とし、闇の中にいた(ヨハネ8:44)。しかし、光であるイエスが私のうちに来られ、私を光としてくださった。また、神の光を反射して生きる者として使命を与えてくださった(エペソ5:8)。私自身に光はないが、神の恵みを受けて輝くことを神は願っておられる。それが「神の国と神の義」。 使命に生きる時、心配する暇がなくなる。心の隙間がなくなる。 おわりに.「地に住み、誠実を」(詩編37:3) 伝道・牧会でも悩み・思い煩いは起きる。そんな時、ある年の御言葉にこの箇所が与えられた。ブレなくなった。神は心が分かれ、力を失わせる「心配」という敵を危惧される。神にのみ目を向け、神の恵みをいただいて、与えられた時、与えらえれた場所で、与えられたものを用いて、日々生かされていこう。 (説教者;田代美雪牧師) |
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