「鉄の戦車を持っていても」(ヨシュア17章18節) ( 6.28/2020 )
「山地もあなたのものとしなければならない。それが森だとしても切り開いて、その隅々まであなたのものとしなさい。カナン人が鉄の戦車を持っていても、強くても、あなたは彼らを追い払わなければならない。」

1.ヨセフ族の陳情と現実

ヨセフ族は「ただ一つの割り当て地しかくださらないのですか。これほどの数の多い民になるまで、主が私を祝福してくださったのに。」(14節)と人数が多い割に嗣業の地が狭いと苦情を言っているのですが、本当の問題は、山地を拓くのも骨が折れる仕事だし、平地に住むカナン人は鉄の戦車を持っていて手に負えないというところにありました。わかりやすく表現しますと、カナン人を追い払えないので別の土地をいただきたいのですが、と陳情しているのです。

2.ヨシュアの答え

だめだ、というのがその答えでした。敵が強くても追い払わなければならないというのです。

3.私共にとってのカナン人とは

カナン人は12節からわかるようにメギドやタアナク、エン・ドル、ドル、イブレアム、ベテ・シェアンにずっと住み続ける気でいました。そしてカナン人は鉄の戦車をもっていたのでヨセフ族を隷属させることができたのだと思います。近づけば傷つけられる、そんな存在がカナン人だったのだと思います。

根性で戦え、そうすれば勝てる、そう言いたいのでしょうか。それとも、主の御心だから敵が主によって混乱させられて勝てるというのでしょうか。鍵は「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」(ガラテヤ2章21節)にあると思います。戦車、すなわち律法では偶像に勝てないのです。

聖書の中のカナン人のような存在は、主イエス様に出会う前のサウロ(のちのパウロ)、がそんな存在でであったと思います。律法という鉄の戦車を持っていて弱者を迫害するのです。しかし、律法は肉、すなわち、みだらな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興に対しては、しらけ鳥が飛ぶように無力なのです(ガラテヤ2章21節、3章13節、4章5節6節)。

そして、この戦車で戦って肉に勝てなかったパウロ自身が学んだ必勝法は、かみつき合ったり、食い合ったりしないで、御霊によって歩むことでした(ガラテヤ5章15節、16節)。すなわち、痛い目にあうことを恐れず、御霊の実である、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制を選ぶことを勧めています。痛い目にあうことは恐怖だと思います。けれども、誇りに代えてキリストの十字架に共につくことを選べば、世に死ねるのだよと教えています。大事なのは新しい創造だと表現されています(ガラテヤ6章15節)。
「しかし、私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。」(ガラテヤ6章14節)、「御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。うぬぼれて、互いにいどみ合ったり、ねたみ合ったりしないようにしましょう。」(ガラテヤ5章25節、26節)、「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。」(ガラテヤ3章13節)。カナン人は鉄の戦車で戦い、ヨセフ族や主イエス様に出会う前のパウロは律法で戦いました。私共は何によって戦うべきでしょうか。

自らが鉄の戦車、すなわち律法にあこがれ、ねたみや偶像や汚れのとりこになってキリストを迫害していないか自省し、御霊によって、律法に生きる人々をも愛し、その痛みを共に負いましょう。御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です(ガラテヤ5章22節、23節)。しかし、もっとすばらしいのは、もし御霊によって行きたくない所へ行くならば、弱さの中にある私共であり、悲しみは味わいますが、人々はキリストと出会えるのです(使徒の働き22章7節)。

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