「再び建てない」(ガラテヤ2章18節) ( 7.19/2020 ) |
「もし、自分が打ち壊したものを再び建てるなら、私は自分が違反者であることを証明することになるのです。」(ガラテヤ2章18節) 自分自身の掟、すなわち律法で救われるのではなく、キリストの死によって救われるというのがクリスチャンなのだというのがガラテヤ2章のメッセージです。 使徒パウロはまず、自分自身の救いについて説明するのですが、前半で彼が言いたかったのは、自分はヤコブやケパやヨハネと違って異邦人のために召された使徒だということでした。異邦人も救われることができるということは人から出ているのではなく、神から出たことでありヤコブたちからも承認されており、そのために使徒とされたのが私だと言っています。ところが、ケパがこの異邦人も救われるという福音と違った行動をとった、このことについて話をしたいと彼は言っています。 1.福音とは何か ケパは、ある人たちが異邦人クリスチャンの群れに加わったとたん異邦人クリスチャンと一緒に食事をしなくなったというのです。福音が与える救いとは人と人との関係を維持するそういう性質のものではなく、ユダヤ人クリスチャンから迫害されても、獲得しなければならないものだと言っています。 2.壊したもの パウロがクリスチャンになった際に壊したものがありました。それは、律法であり自分自身の考えでした。自分自身の測り、常識、律法で人は救われるというような考えは壊してしまったのだと言っています。しかし、それが事実でも壊せるのかという問題があります。この問題のために彼は信仰を持ち出すのです。それが、イエス・キリストに対する信仰です。すなわち、「キリストは、今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださいました。私たちの父である神のみこころにしたがったのです。」(ガラテヤ1章4節)十字架という方法でキリストが死んでくださった、すなわち律法ではなく自分を与えてくださったこの方法で私共は罪から救われたのだというのです。 3.再建してはならない 自分自身を再建してはならないというのです。神のみ旨に従わない自分は信仰によって死んだのだから再び自分の律法で生きてはならないということです。 再建しないのならどこに住めばよいのでしょうか。それが死、すなわち十字架であり、また、キリストのうちなのです。 水の中にもぐっているときは、外の音が(うぉんうぉん)と聞こえると思うのですが、死んでいる自分として、鮮明に聞こえる音や声、そして、鮮明に見える事件を死の中から見、直さなければなりません。(かわいそうではないですか。不公平ではないですか。)というような判断もできるかもしれませんが、主イエス様が十字架にかかってくださったことによって救われることを信じるクリスチャンは異邦人と食事をする、すなわち、律法を無視する人々を愛してくださった神を受け入れたのだというのです。 そんな愛の神様をどの程度受け入れるのでしょうか。「キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2章20節)キリストに人々が会えるほどに受け入れるのです。 自分中心、律法中心の人間が愛の人間に変われるのでしょうか。色鉛筆ですと、赤えんぴつ、青えんぴつ、また二色えんぴつもあります。主イエス様は悪霊も従わせました。「この方が汚れた霊にお命じになると、彼らは従うのだ。」(マルコ1章27節)青赤の違いって何でしょうか。霊です。ケパにとっては人が神だったのです。しかし、主イエス様によるならば神からの義を求める性質が与えられるというのです。すなわち神に悔い改め、神から解決を与えていただく人生があるのです。これをパウロは経験していました。ケパも主イエス様によるならば変えられることができるのです。 律法の延長上にではなく死の延長上に義はあります。神がキリストの死を無にはなさらないからです。神の恵みを無にはしないとパウロは言っています。(死、無にしない、わからんね〜)と思われるかもしれませんが、死んだ人はその身を委ねています。神である主イエス様に人生を委ねてみませんか。主イエス様が命ぜられることだけに。 |
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