「レビ人の役割」(ヨシュア記21章44節) ( 8.3/2020 ) |
「主は、彼らの先祖たちに誓ったように、周囲の者から守って、彼らに安住を許された。すべての敵の中で、ひとりも彼らの前に立ちはだかる者はいなかった。主はすべての敵を彼らの手に渡された。」(44節) レビとは、ヤコブの3男で、イスラエルの民が偶像礼拝に陥った時、「主につくもの」(出エジプト32章26節)になった民であり、エジプトから脱出した際、初子が打たれたのですが、イスラエルの民の初子の代わりに取られたのがレビ人でした(民数記3章12節)。ヨシュア記というのは、イスラエルが約束の地を占領していく過程が記録されている書なのですが、レビ人だけは主ご自身が彼らの嗣業であると繰り返し語られていて、自分たちが住むための町とその周囲の放牧地以外は嗣業を持たない民とされています。このような特異な立場にいるレビ人が住むべき場所を得たのは、最後でした。最後の意味とは、 1.各部族から町を分け与えられた民 彼らが住んだ町々は彼らが戦って取った町ではなくくじで与えられた町でした。すなわち、イスラエルの民は主がモーセによって命じられたとおりに、彼らに町々と放牧地を与えました。 2.彼らの役割 各部族の中に住むべき町を与えられたレビ人ですが、彼らは、元は主の幕屋を持ち運び主に仕えることを仕事としていました。18章1節ではイスラエルはシロを占領しそこに幕屋を建てていましたので、この時点ではレビ人はシロにいました。しかし、彼らがくじによって散らされたことにより、彼らは散らされた地で主を証しする務めを負いました。 3.安住、敵をその手に渡されたとは 世に対する勝利がイスラエルの勝利でした。すなわち、彼らが戦ったのは偶像でした。例えば戦争が起こると最前線の人々は敵と戦い、後衛の人々は物資を運搬したりして援護するのです。敵は貧しさではなく豊かさです。豊かさはサタンでも与えることができますが、貧しさやきよさは主イエス様しか与えることができないものです。「これからは、決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8章11節)と、主イエス様がおっしゃるとき、すなわち、彼が(罪の生活から離れなさい)と命じられるときサタンは私共に手を出せなくなるのです。 昔のレビ人が何と戦っていたのか、それは、その時代、後の者になる務めのためだったでしょう。では今の時代のクリスチャンは何と戦うべきでしょうか。サタン、すなわち、豊かさへの誘惑と戦うべきではないでしょうか。主が先祖たちに誓ったように、周囲の者から守って安住を与えてくださるように祈りましょう。 世に勝つにはダビデ王のような神への信仰が必要です。「放っておきなさい。彼に呪わせなさい。主が彼に命じられたのだから。おそらく、主は私の心をご覧になるだろう。そして主は今日の彼の呪いに代えて、私に良いことをもって報いてくださるだろう。」(2サムエル16章11節12節)そして、最後の者、そして分け与えられる者であるレビ人とは、戦いにおいては最前線の者であり、戦いの勝敗が全体の士気を決することを知る必要があります。そして、彼らを守ってくださったのは、主でした。 |
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