『さばいてはいけません』(マタイ7章1〜12節) ( 10.18/2020 )
「偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば…」(5節)

序. 

山上の説教の締めくくり。終りの時代にあっていかに再臨に備えて歩むべきか。

1.さばいてはいけません

偽善者の教えと主イエスの教えの根本的な違いは、父なる神の愛から出ているか、どうかということ。前者の動機は高慢。「恵まれた」クリスチャンほど陥りやすい罪かもしれない。裁く時、その心に愛がない。自分が神から愛されていることを知らない。他の人の中に神の像が刻まれていることを忘れている。人をけなすことは神をけなすこと、さらに神の作品である自分の価値を下げることになる。神はそれを悲しまれる。
自らの愛のなさに嘆き、愛を「求めなさい。そうすれば、与えられます」。「貧しい者」、「飢え渇く者」は満たされる。愛の神である聖霊によって。

2.見極めなさい

間違って「さばいて」はいけないが、終りの時代には偽りを見極めることが肝要。二種類の同種を見極める譬えが5つ。クリスチャンは、「窮屈」だと思われがち。しかし、それは「狭い」ようで、安全な命に至る道。真の自由は囲われた中で楽しむことができる。悪魔は広い道に常に誘う。偽る。終りの時代にあって、私たちは「十字架」の道を選び、命に至る道を歩もう。

3. 主イエスの土台に密着して

砂地の下深くに、実は岩地がある。掘り下げる努力を怠るということ。神の言葉を表面的に、世の教えと変わりない物のように受け取るだけなら、岩に土台を打ち込む家を建てることができない。御言葉を聞いて、「行う」とは、御言葉の光に、自分の真相を照らされた時に、それに正面から向かうことを厭って逃げるのではなく、正直に悔い改め、神の義を頂くことを繰り返す、そうすることによって、岩に一打一打、杭を打ち込み、イエスという土台に密着した家、人生を建てることができる。そのような人生は、上からも、下からも、横からも、試練を受けても、滅びない。また、最後の審判に耐え得る。それは十字架の贖いの代価によって着せれらた義の衣。

おわりに.

神の義を求め、神の愛に信頼して、終りの日に備えよう
偽りは、広い道。しかし、最後に暴かれる。
神の愛をいただき、最後まで信頼し、御言葉に応答して歩ませていただこう。

(説教者;田代美雪牧師)

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