「権威ある新しい教え」(マルコ1章21〜28節) ( 3.6/2011 ) |
「イエスはこれをしかって、「黙れ、この人から出て行け」と言われた」(25節) マルコが福音書を記した理由のひとつとして、彼が一時共に宣教に携わっていたパウロとの間に、福音に対する理解の相違があったのではないかと考えられております。パウロが最も大切なこととして教えていた事は、キリストが私たちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、そして3日によみがえったことでした。この福音に対して、マルコは生前の主イエスの姿を伝える必要性を感じて福音書を書いたのではないでしょうか。 私たちが日常思い悩む事柄の一部は、確かに自己愛に起因しているかもしれません。けれども、病や経済的困難などの苦しみを、その人の罪の問題として扱っても何ら解決は得られないでしょう。マルコは悪霊につかれた人の癒しを目撃したわけではなく、イエスの死後カファルナウムを訪れ、その地に残っていた伝承を基に福音書の中に記しました。21節によりますとイエスは会堂で教えるラビ(教師)のような人でした。そこで彼は律法の徹底実践を教えた訳ではなく、全く新しい価値観で神と福音について教えましたので、まるで新しい権威ある者のように見えて驚いた、と人々は証言しています。 「権威」は分詞でなく名詞として訳すと、王のようにというニュアンスを含む言葉だそうです。霊にとりつかれたような不条理に苦しむ方は、何故なのだと感じることがあると思います。また、神からの答えがほしいという素朴な願いもあるでしょう。イエスが権威ある者と感じられたのは、確かにその圧倒的な存在感ゆえとも思いますが、その語られた内容が神からの応答と受け止めることが出来るものだったからではないでしょうか。悪霊が「お前が何者か分かっている」とイエスに叫びます。それに対してイエスは「黙れ、この人から出ていけ」と叱責します。悪霊とは、不幸の原因を他人や因習や偶像などさまざまなもののせいにし、心の中に宿り続けようとしている病んだ精神状態を意味しているのでしょう。イエスは「間違っている、この人から出て行け」と厳しく叱責し、悪霊を追い出しました。 私たちはたとえ不条理があろうとも、それを神に帰したりすることなく、それを周囲の人々が隣人愛で支えてあげることも、信仰の一つの現われなのではないでしょうか?神を愛し、隣人を愛する事が信仰なのですから。 |
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