「聖域にある建物」(エセキエル41章12節) ( 10.25/2020 )
「西側にある聖域にある建物は、その奥行が70キュビト、その建物の周りの壁は、厚さ5
キュビト、その間口は90キュビトであった。」(5節)

神殿の奥にさらに聖域があり、そこに建物がありました。私共の知りうる世界がごく一部であることを思い知らされるのです。果たしてその奥にあるものとは、

分析 1節〜4節 聖所
   5節〜11節 宮の周囲の脇間
   12節〜17節 西の方の宮の庭に面した建物その他の寸尺
   18節〜26節 内部の装飾と木と壇と扉

1. パンも燈台もない世界

本日、神殿の詳細図と着想は矢内原忠雄氏のエゼキエル書と米田豊氏の旧約聖書講解(下)から学ばせていただきました。『この神殿には幕も供えのパンも燈台ももはやない。メシヤご自身の臨在をもってこれらを廃したからである』と旧約聖書講解に記してありました。ソロモンの神殿でもなく、ゼルバベル神殿でもなく、ヘロデの神殿でもない、エゼキエルに幻で示された神殿の、更にその奥に聖域と神殿があったのです。そこにあったのはケルビムとなつめやしの彫刻と木の机があり、本殿と至聖所にそれぞれ二つの扉があったとのことです。神の示される世界は不思議なことでいっぱいです。

2.エゼキエルが見たと証言する脇間の土台(8節)

「私は神殿の周りが高くなっているのを見た。」(8節)すなわち神殿に入るときに7段、外庭から内庭に入るときに8段、内庭から聖所に上るときに10段、しかし聖所の奥の西側に行ってみると更に一竿3.1メートルくらい高い場所が存在したというのです。未知の世界です。

3.神の聖と出会うとき

エゼキエルは神が聖であられることを人々に説いて回るのですが当時の世界は聖書を手にもって読むことができる世界ではありませんでした。代わりに律法があり神に近づくための道筋は生活スタイルに映し出されていました。けれども、律法によっては、人は神に近づくことができず、その代わりに、神ご自身が人となって地上に下ってくださいました。それが主イエス様です。神に近づくことができない問題を解決するために神が取られた方法は、人間を愛するという方法でした。すなわち、ご自身の御子を十字架の上の死に渡して、信じる者たちを死と滅びから救ってくださるのです。

ちなみに日本の仏教とどこが違っているかと言いますと、日本の仏教は、主イエス様の十字架と復活の出来事、並びに神の存在をすっぽり抜き取って捨ててしまっています。しかし、神は存在され、神は闇ではなく光であり、私共を照らすことができるお方であり、罪から救ってくださるお方です。

私の場合は、中学一年生の時に光である神様の御前に出て罪を告白し、罪を赦していただきました。すなわち、光である神様を愛する生活が始まったのです。しかし、神を愛することを知って後に知ったことは自分の罪深さでした。けれども、苦しみののちに、神は御子イエス様の血潮でわたくしを覆ってくださり、今日あります。すなわち、日本人の救いの概念とキリスト教徒の違いは、高く上るのが救いというのではなく、罪を御子のいのちで覆っていただいて神からの義を受けるのです。高く浄土に引き上げられるのではなく、罪びとが、神の愛によって覆っていただくのがキリスト教です。自分のきよさや力ではなく、キリストの血潮で戦うときにのみ勝てるのがクリスチャンです。

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